少年と亡霊妃と不死鳥公主
『その様な忌み名で、あの娘を呼ぶな……!』
怒号と言ってもいい、裂帛の言葉と共に、地下にある会場を揺らす程の音の打撃が、ハワードに叩き付けられた。
椅子が弾け飛び、床には深い罅が走る。千々に千切れた絨毯の切れ端が舞い、砕けたランプの硝子が、甲高い音を連ねて床に散乱する。
思わず耳を塞いだマルコとレイナが見たのは、硝子が砕け消えた筈の、ランプの灯りが再び点く光景と、二人のハワード・レリックスが、嫌味な程に輝く炎を身に纏う姿だった。
「素晴らしい。やはり、噂に違わぬ力」
『貴様にしろ、いつかの木っ端にせよ。妾を不快にさせる事だけは、得意な様じゃな』
「ははは、かのエレドア司祭を葬っただけの事はある」
マルコの顔が一瞬曇るが、あの司祭を殺したのは、テレスティアではなくサナルカだろう。
いや、本当は生きているかもしれないが、今は関係無い。
『主様、これの下に』
「これは?」
ハワードをいつでも弾ける様に、指を彼に向けたまま、テレスティアがマルコに手渡したのは、豪奢でマルコよりも大きい傘だった。
布、骨組み、柄に至るまで、その全てが今までテレスティアが渡してきたものよりも、遥かに格上の物であると、マルコ達に伝えてくる。
開くと、マルコとレイナの二人だけでなく、少女を入れてもまだ余裕がある。
これは傘ではなく、最早天幕のそれだ。マルコがそう感じた時、傘の柄が伸び床に当たると、木が根が張る様に柄が床に広がり、傘の内側には夜空を連想させる、大小様々な宝石が輝きだした。
『〝冥石宝女王の火避け傘〟、灼熱の中でもその中なら、不快な汗一つ流れず、不躾な刃の刃先すら届かぬ』
「素晴らしい。ここからでも、異様な魔力が伝わる。そうだ。その力、我らの神の為に使う気は?」
『妾の力は主様だけのもの。貴様らに使うものなぞ、塵芥の一つも無い』
また一度、音の打撃をハワードに叩き付ける。次は逃がさないと、全方位からの圧殺だった。
しかし、倒れたのはもう一人のハワードだけであり、その姿も陽炎の如く消えた。
「まったく、驚きが尽きません。この衣が、まさか乱れるとは」
『妾をここまで不快にさせるとは、万死に値するぞ』
「そう言わないでいただきたい。今日の席は無理矢理用意したのですから」
『貴様の手間なぞ、妾の知った事か』
音の打撃を連続させる。
常人ならば、既に形も残っていないだろう打撃だが、ハワードは纏った炎が揺らめくだけで、何の痛痒も感じていない。
音の打撃が、炎に飲み込まれている。まるで、柔らかいクッションか何かを叩いた時の様に、テレスティアの放つ音が、ハワードの炎の中へ消えていく。
「ヒメ、何かおかしいよ!」
『これはまた、珍妙な物を持ち出しよったな』
「ほう、これが何かご存知で?」
ハワードが見せびらかす様にして、両腕を大きく開く。
纏った炎はハワードを焼く事無く、追従する様に動き、一つの形を成していく。
丈の長いファーコート、そうとしか見えない姿になり、炎の揺めきが毛先の様に揺れていた。
『〝不死鳥公主の外套〟じゃな。あの気難し屋が人間に、私物を貸すとは、長く在って丸くなりでもしたか』
「貸し与える? いやいや、我らの公主様より正式に下賜された一品です」
『はっ、もう少しましな嘘を吐け。あの差別主義の偏屈鳥が、人間に私物を下賜するなぞ、天王が入れ替わるくらいに有り得ん』
「おや、ご存知ないので?」
『天王は改号され、今は神王と名乗られているのですよ』
テレスティアが目を見開き、ハワードが両手を打ち鳴らす。すると、瞬く間にハワードの炎がテレスティアに伸び、彼女に巻き付いた。
周囲の絨毯をカーテンを、椅子を焼く炎に巻き付かれながら、だがテレスティアは腕を組み、尊大にハワードを見下ろしていた。
「やはり、一定以上の魔力の塊なら、貴女に触れられる様ですね」
『これがどうしたと?』
「なに、何故に同志たるエレドア司祭が、最弱と謳われる幽霊に負けたのか。その理由を知りたかったのですよ」
知れてよかった。もう一度、ハワードが両手を打ち鳴らすと、周囲に待機していた仮面達が、ゆっくりとマルコ達へと歩き出した。
『貴様、まさか』
「ふむ、力だけでなく、知も優秀。そう、君の考えは当たっている。この会場の元の持ち主、リチャード・マッカウの部下達です」
「……貴方、一体何者なの?」
「私はハワード・レリックスですよ、レイナ・ハーフストン様。聖天教の教えを信じ、聖なる火を奉る者です」
ハワードが手で覆う様にして、自らの顔を撫でる。仮面は変わらないが、仮面から露出した口元は明らかに変化していた。
目立っていた黒子は消え、骨太で肉が若干余っていた顎は細くなり、よく見れば髪色も赤みを帯びた黄金色に変わっていた。
『成る程、その髪。あの偏屈鳥がただの人間に貸し与える筈が無い。貴様、あやつの眷族であったか』
「あまり、誉められた生き方ではありませんでしたが、それだけが私の誇りです」
『ふん、滑稽じゃな。しかし、褒めてやろう。人の身で、不死鳥の一端を背負える事。誇りに思うがよい』
「感謝を。しかし、宜しいのですか? 貴方のお連れ様は、貴女程強くはないのでしょう?」
確かに、マルコは魔法も剣も使えず、レイナも護身用の短剣しか武装は無い。その上、あの悪魔の娘を抱えている。
しかし、迫っている者達も、あの様子から察するに、娘と似たような状態なのは明らかだ。
「あ、言い忘れておりました。禁薬を使っていたのは、私ではなくリチャードですので、勘違いなさらぬよう」
「その人達を操ってる時点で、貴方も変わらない」
マルコの真っ直ぐな視線と言葉に、ハワードは肩を竦める。口元には、はっきりと苦笑が浮かんでいる。
「最早助からぬと分かっていても、救いがあってもいいじゃありませんか」
どこか悲しそうなハワードの言葉に、マルコもレイナも一瞬、呆気に取られて警戒を緩めてしまった。
「マルコ!」
「え? うわ?!」
足を縺れさせ、仮面の女が倒れ込むように、マルコが抱えている少女へと、手を伸ばしてきていた。
辺りを見回せば、レイナにも手を伸ばしている。しかし動きは緩慢で、傘から伸びた影の様な触手に薙ぎ払われている。
「これって……」
マルコは、傘の側に倒れていた一人の女に目を向けた。
テレスティアのラップ音に弾かれ、そのまま意識を失ったのだろう。胸は動いていて、呼吸はしている。だが、その呼吸も緩慢で、よく見ると肌の色が白を通り越えて、灰色に近くなっていた。
「禁薬の後遺症さ。その薬は快楽と多幸感を与える代わりに、体から活力と判断力、命を奪っていく。一応、使い方さえ間違えなければ、痛み止とかにも使えるのですが……」
「貴方はそれを使っていた?」
「いや、それは断じて否だ。Mr.マルコ、私はその薬に嫌な思い出しかない。……ただ、私は遅かっただけだ」
そう言っている間にも、仮面は次々と倒されて、しかしまた立ち上がる。
マルコはレイナを見る。彼女は優しい眼差しを、マルコに向けて、瞳を閉じてからゆっくりと首を横に振った。
「……ヒメ、ヒメならこの人達を治せる?」
『主様、妾は主様の命なら、如何様な事でも叶えよう。しかし、この者達は手遅れじゃ』
仮面の奥、見えないハワードの瞳が、静かに一度だけ閉じられた。マルコにはそう見えた。
「ハワード。貴方の狙いは、いまいちよく分からない。けど、僕はこの子を連れて帰る」
「しかし、どうしますか? 私は若干では御座いますが、腕に覚えがあります。しかし、貴方にこの場を切り抜ける力がおありで?」
「力なら、あります」
きっと、この覚悟の様な気持ちも、少しだけの全能感も、彼女をそうだと思い込んでいる自分の勘違いだ。
だが、彼女はそうだと言ってくれて、今も待っている。
なら、マルコの言う事は一つだ。
「ヒメ、命令だ。僕とレイナと彼女、この三人に傷一つ負わす事無く、この場を脱しろ。そして……」
大きく息を吸い込み、腹に力を入れる。
「そして、この人達を救え」
『……畏まった、畏まったぞ我が主。ではこれより、命を果たそう』
テレスティアは、一つの呼び鈴を手にする。騎士の兜が象られたそれを鳴らすと、聞いた事の無い不思議な音色を響かせた。
『
不思議な音色と、どこか不気味な言葉。腹の底から冷え凍る様な、言い知れぬ狂気を孕んだ二つに、ハワードも動けずに、テレスティアの動向を観察するしかなかった。
『
だが、そこでハワードが動いた。テレスティアに巻き付けていた炎を、一息に絞り上げ、瞬時に練り上げた火球を放つ。火に耐性を持つレイナでさえ、耐えきれないだろう熱の塊。しかしそれは、テレスティアに届く事は無かった。
〝
『
剣、槍、盾、斧、鎌、六つの腕にそれぞれ得物を持ち、明らかに人間とは違う歪な姿の騎士が、ハワードの放った火球を、千々に斬り裂いた。
〝
『
〝
人の出す音とは違う、何か硬質なものを、擦り合わせる様な音で頷き、騎士はハワードに向けて、刃を振りかざし駆けた。
『さて、申し訳ないが主様、イザベラの娘。少々手伝ってはくれぬか』
「何をすればいいの?」
『これから、ちと面倒なやつを呼び出す。その間に、彼奴らを簀巻きにでもしておくれ』
二人が頷き、テレスティアはまた別の呼び鈴を手にした。
『
高く、よく響く鈴を数回鳴らし、だが、クロクモの時とは違い、まったく反応が無く、テレスティアの額に薄く青筋が浮いた。
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