少年と亡霊妃と聖火妃
ある日、一人の人間が冥界に降りた。
その人間は瞬く間に、冥界の住人により嬲り殺しされる。
その筈だった。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
「……ヒメ」
自分でも、驚く程に低い声だった。
『如何なされた主様』
やや慇懃に、テレスティアが応えた。
求められる要望など、とうに知れている。
だがテレスティアは、敢えて要望を問うた。
「これはもしかしなくても、決して赦される事じゃない」
『うむ、戦後間も無くならいざ知らず、今は戦後数百年。些か、行き過ぎた行いよな』
「僕は赦せない。だけど、暴力で奪い返すのはいけない事だ」
『であるなら、どうされるおつもりか?』
マルコは深く息を吸った。周りでは、少女と短剣を競り落とそうと、怒号にも似た声が、多額の金貨を積み上げている。
その声すらも、煩わしい。
「マルコ……」
レイナが心配そうに、マルコに視線を向ける。しかし、その瞳には強い意思が宿っていた。
テレスティアから渡されたペンダントを握り締め、レイナは無言で、だが力強く頷いた。
「ヒメ、これはお願いじゃない。命令だ。彼女と短剣を競り落とせ。誰にも文句を言わせず、抗う事も無意味だって、圧倒しろ」
テレスティアは、誰にも見られぬペンダントの中で、己で己を抱き締める。そうでもしなければ、歓喜と悦で身が張り裂けてしまいそうだった。
この身となって、久しく感じていなかった熱と高揚感。白く透けた頬を紅潮させて、テレスティアは熱を感じる吐息を吐き出した。
『畏まった、畏まったぞ。我が主、我が王よ。妾の全ては貴方様のもの、妾の全ては貴方様の力。如何ようにも使い潰されよ』
「話は終わったわね。なら、早く参加するわよ」
レイナが急かす。積み上がった金額は既に、百万近くに達しており、このままでは少女と短剣は、別の貴族に落札される。
「八十万! 八十万出ました! さあ、これ以上の方はいらっしゃいませんか? 居なければ、この金額で落札とさせていただきま……」
ハワードがそう言って、落札の決定を宣言しようとした瞬間、レイナは高らかに告げる。
「百万」
「……は?」
誰のものか。呆けた声が聞こえた。
驚愕に、思考を止めた声だったのだろうが、今のレイナの声の主であるテレスティアは、そうは受け取らなかった。
否、受け取る気がなかった。
「ふむ、足りぬか。なら、百二十万。これもか? 百五十万でどうじゃ」
「……百六十万だ!」
鼻息荒く、レイナ達より後ろの席で、そう叫ぶ声があった。百六十万という金貨を提示出来るという事は、空手形でもない限りは、かなりの家柄なのだろう。
相手もこれ以上は無いだろうと、どこか勝ち誇った様な顔だ。しかし、レイナはテレスティアに同調する様に、鼻を鳴らした。
(ふん、雑魚めが)
(どうするのかしら?)
(決まっておる。上から叩き付ければよい)
「百六十万、百六十万以上の方はいらっしゃいませんか?」
「二百万。文句はあるか?」
数人が、何か言おうと口を動かすが、声は出ず、ただ空気の漏れ出る音だけが、会場に転がる。
ハワードも誰もが言葉を失い、檻の中の少女は何が起きているのか解らないのか、それか周囲に興味すら無いのか。短剣を抱き締めたまま、ゆらゆらと角を揺らして座り込んでいる。
「足りぬか。ならば、三……」
「ら、落札! 落札です……!」
「そうであるなら、さっさと言わぬか」
落札が宣言され、会場が沸く。周囲は浮き足立っているが、落札した本人は不機嫌極まりない。
それもそうだ。自分達と、年齢がそう変わらないであろう少女を、地位ある大人が寄って集って、金で買おうとしていて、それから救うという名目があっても、自分達もそれを行ったのだ。
腹の底が重く感じる。命を自分のエゴで買うという意味と結果が、腹の底に重く沈み込む。
軽く息を吐き出して、背筋を伸ばすと、少しだけ重さが消えた様な気がする。
「マルコ、準備は?」
「大丈夫、ヒメが終わらせてる」
内心で息を吐く。色々とあるがとりあえず、目的は達成した。後は、ここから去るだけ。
しかし、明日から少し憂鬱ではある。恐らく、この赤髪で正体はバレている筈。ハワードに守秘義務はあるだろうし、周りも話す事はそうそう無いだろう。
だが、人の口に戸は立てられない。
ハーフストン家のレイナが、《魔王の遺品》を落札したという噂は、必ず出回る。
──まあ、しらを切ればいい話ね──
鬘でも被っていたのだろう。とでも言えばいいだろう。
普通に考えれば、いくら貴族とはいえ、こんな子供が居る筈のない場所なのだ。
どうとでも言い逃れは出来る。
「そ、それでは、今回の競売は終了とさせていただきます。落札品の受け渡しと、お支払いは別室にて個々に行わせていただきます」
目当てを手に入れた者、手に入れられなかった者。各々が係の者に案内されて、会場を後にしていく。
手に入れた者は受け渡しと支払いに、手に入れられなかった者は、恐らく規定のルートの様なものがあるのだろう。
まるで、順番でもあるかの様に、参加者が会場から案内され、残ったのはハワードを含む数人と、マルコ達だけになっていた。
──あれ? ──
そこでマルコが気付いた。全員の仮面を、覚えていた訳ではない。だが、それでも拭いきれない違和感があった。
(マルコ、私の後ろに。後、彼女がいつでも出られる様に)
レイナはマルコの感じる違和感に、早くも気付き、隠していた短剣の柄に手を伸ばしている。
「おや、どうされました?」
「その仮面、思い出したわ。貴方、聖天教の聖火派ね」
「ええ、その通りです」
答える声はどこか誇らしげだった。
しかし、レイナはその返事に、眉を顰める。
「狙いは私ね」
「狙いなどと、我ら聖火派、天界よりの聖なる火を崇める者。人界の火の象徴たる貴女様をお迎えしたい。その一心のみに御座います」
レイナの眉が吊り上がる。この表情の時のレイナは、非常に怒っている。段階的には、最大級に怒る一歩手前だと、マルコは知っている。
滅多に無い事だ。マルコが子供の頃に、服の中に蟲の玩具を入れた時以来だ。
「母に断られ、なら娘かしら。残念ながら、私は聖天教の信者ではありませんの」
「ええ、存じ上げております。ですので、お招きしたく、この様な場を用意させていただきました」
眉の吊り上がりに、額の青筋が追加された。振るわれるのが、ビンタから拳骨になった瞬間だ。
見れば、手に持つ短剣に魔力が通っている。最大加熱で鉄すら熔断する短剣だ。
レイナはそれを周囲に見せびらかし、隠れた手でマルコにサインを送る。
「こんな事の為に、その子まで巻き込んで、恥を知らないのですね」
「これは手厳しい。しかし、彼女は魔族、それも純血の悪魔です。我ら聖天教にとっては不倶戴天の敵で御座います。……死体ではないだけ、まだましでしょう」
「詭弁を……!」
レイナが声を荒げ、短剣を座席に振り下ろす。上質な革と木、そして綿で出来た座席は、赤熱した短剣に一切の抵抗を示さず、ゼリーの様に両断される。
いきなりの事に、場の全員の注意がレイナに向けられる。その隙に、マルコは檻に囚われた少女へと、急ぎかつ隠密に向かう。
(ヒメ、あの檻)
(任せよ。あの様なもの、妾にとっては玩具同然じゃ)
テレスティアが指を鳴らす。それだけで、檻を閉じていた南京錠は開かれ、マルコは重い檻の戸に手を掛けた。
「さあ、早くこっちに」
マルコが呼び掛けるも、少女は短剣を抱えたまま、反応一つしない。一体どうしたのだと、マルコは少女の眼前に手を翳す。数回手を振るが、反応は無く、虚ろな目が虚空を見つめていた。
このままでは埒があかないと、マルコは少女の腕を掴み、抱える様にして檻から引き摺り出す。
その際に、燻された様な鼻に刺さる臭いに、少々涙目になる。
『ぬ、主様。あまりその臭いを吸うてはならぬ。あまりよくない薬じゃ』
テレスティアが再び指を鳴らすと、マルコに与えたケープが、何処からか姿を現し、マルコの口元を覆う様に巻き付いた。
『月夜帳は、毒気も通さぬ。しかし、また懐かしい薬を……』
「懐かしいって?」
『主様、それは後じゃ。今は』
こやつらが先じゃ。三度の指を鳴らし、起こしたラップ音で、マルコの背後に迫っていた仮面の女が弾かれる。
その際に、露出した胸元から一つ、香り袋が転がり落ちた。
『また、随分な真似をしよるな』
「噂に名高い幽霊殿に、お褒めに預かり光栄だよ」
レイナの目の前に居た筈のハワードが、何故かマルコの目の前にも居た。瓜二つ、双子という問題ではない。
ハワード・レリックスそのものが、二人居る。
『イザベラの娘、こちらへ来い』
「彼女は〝聖火妃〟の血筋だ。娘ではないよ」
二人のハワードがそう言った瞬間だった。
『あの娘を、その様な忌み名で呼ぶな……!』
テレスティアが激昂し、特大のラップ音をハワードに叩き付けた。
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