少年と火の娘と亡霊妃

 いい朝だと、素直にそう思う。

 広くもなく、しかし狭くもない部屋に、丁度いい大きさのベッドと枕は、柔らかさも丁度よく、体を起こし首と肩を回せば、普段から悩んでいた重さと凝りが薄れていた。

 これで、この嫌味なまでに露出が多く、布地の薄い寝間着でなければ、更にいい朝だっただろう。


「まったく……」


 出来る事なら、貴族の家に産まれたくなかった。望めるなら、マルコと同じ平民が良かった。

 今の様に、魔法も歴史も探究は出来ないだろうが、それでも彼と居られるなら、それでもよかった。

 貴族の嗜み、今までの自分を否定する気は更々無い。しかし、この異性の情欲を誘う寝間着の、何が必要なのか。

 否、子供の出来難い貴族の家に、女として産まれたのだ。その意味は、嫌という程に理解している。

 しかし、それを嫌悪する自分が居る。

 恐らく、レイナ・ハーフストンの芯の部分は、母親に内緒で、マルコと野原を駆け回っていたあの頃から、まるで変わっていないのだ。

 それなのに、貴族としての立場やしがらみを、無理矢理貼り付けて、周りに合わせて、自分の意思ではない事を、平気で口にする様になったから、あの日に彼を見捨ててしまった。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」


 もし、レイナ・ハーフストンが居なくなっても、今の彼には彼女が居る。

 この世界でも有数の絶対者であり、彼とを絶対に見捨てない彼女。謎が多く、不安もあるが、彼女なら大丈夫だ。

 朝日を浴びながら、そろそろ着替えようと、ベッドから降りた所で、一つの視線に気付いた。

 壁から、上半身だけを出したテレスティアが、憐れみの籠った目で、こちらを見ていた。


『んな破廉恥な格好で、朝から何浸っとるんじゃ?』

「……因みに、何時から?」

『貴様が目覚めて、外を眺めながら、何やら呟いておった時からじゃな』


 つまり、ほぼ最初からだ。

 さて、どう言い訳をしたものか。


「えっと、これはですね」

『よい、気にするな。どうせ、貴族の嗜みとやらであろう』


 テレスティアは、するりと壁から抜け出し、宙に寝転ぶ様な体勢で、レイナの周りを漂う。

 憐れみと多少の面倒くささ、様々なものがない交ぜになった視線を受けて、レイナは迷ったが、さっさと着替える事にした。

 銀灰色の瞳に見られているが、幽霊とはいえ同性だ。あまり、気にする必要は無い。


『少しは気にせんか。年頃の娘がはしたない』

「なら、見なければ宜しいのでは?」

『おうおう、言いよるわ。……まったく、そんなところまでイザベラにそっくりじゃな』

「あの、イザベラ様は、どんな人だったので?」


 レイナの問いに、きょとんとテレスティアは呆けた。しかし、すぐに顔を戻し、過去を懐かしむ様に柔らかな表情を浮かべる。


『聡い娘じゃった。ただの人間にしておくには、もったいない程にの。そして、火に愛され、その恩恵を一身に受けた娘であった』


 知っている。ハーフストンの家系は、その証に代々赤髪が現れる。レイナも母もそうだ。

 ハーフストンは火に愛された血筋であり、その魔力の強さは色の鮮やかさが証となる。

 母も鮮やかな赤髪だが、レイナのそれは一線を画す。


「私はどうなのでしょう?」

『イザベラには遠く及ばぬ。だが、その髪と瞳が、未来を暗示しておる』


 赤い薔薇よりも鮮烈な赤髪と、紅玉と見紛うばかり瞳は、レイナが誰よりも火に愛されている証だ。

 その恩恵として、レイナは産まれてから、火傷も負わず、炎熱の苦しさも知らない。

 火に関する魔法なら、学ばずとも自在に使える。

 これだけでも、今の時代は唯一無二の天才と扱われる。

 しかし、それでも遠く及ばない。


『気に病むでない。嘗てと今では、色々と違うでな』

「色々、ですか」

『違う違う、まるで違う。貴様は貴様じゃ。イザベラにはなれぬ。と、そろそろ朝餉の時間じゃ。早う着替えてしまえ』


 自分の姿を見れば、実に中途半端な状態で、着替えを止めていた。


『学業が休みとは言え、主様を待たせるでないぞ』

「ええ、分かっています」


 返事を聞くと、テレスティアは壁の中へと消えていく。実体の無い身を、遮るものは何も無い。生者には見えぬものも見える。


『貴族の嗜み、……厄介な呪いを遺したものじゃな。のう、クロロシフル』


 レイナの体、胎に落ちる黒い影。テレスティアにしか見えないあれは、レイナの体を蝕むものではない。

 だが、確実に未来を奪い去るものだ。

 解いてやる義理は無いが、しかし


『イザベラの娘を邪険には出来んのじゃよな』


 まったく、長く在ると要らぬものが見えて困る。

 テレスティアは一人呟いて、遥か遠い日々に語らった友の顔を、瞼の裏に思い出しながら、マルコが待つ部屋へと再び消えた。






 〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃






 朝食は懐かしい味だった。


「大丈夫だった、ですか?」

「ええ、美味しかったわ」


 質のよくない麦のパンと、薄いハムとほんの少しだけ萎びた野菜。これをパンに挟んで、塩を振って食べる。

 質素で、ハーフストン家では、何があっても出る事は無い食事だが、レイナにはこれが丁度よかった。


「そういえば、マルコ。今日はどうするの?」

「今日は、足りない物を買いに行く、ます……」

「マルコ、敬語はいいのよ?」

「いや、でも……」


 レイナが溜め息を吐く。確かに、彼と距離を空けたのは、自分の失態だ。しかし、あの聖堂での一件では、昔の様に話していたのに、今ではこれだ。

 悪いのは全面的に自分だが、避けられている気がして、あまり気分のいいものではない。


「レイ、ハーフストンさんは貴族で、僕は平民だ」

「……マルコ、私はね、あの家が嫌いなのよ」

「え?」


 意外だという表情だが、それも頷ける。

 この世界の貴族は、自分の血筋こそが至高と信じて止まない。ある意味、病的な信仰とも言えるその考えが、レイナは嫌いだった。


「本当に好きな事も出来ず、本当に守りたいものも守れない。貴族なんて、くだらない意地と面子だけの……」

「ちょっと待って、自分の家を悪く言うのは良くないよ。……です」

「マルコ、私は貴族のハーフストンじゃなくて、ただのハーフストン家に産まれたかった。そうだったら、あの日貴方を見捨てる事は無かった……」


 あの日、適性が決まり、最初の実技試験で、マルコは何も出来なかっただけでなく、無理をして事故を起こし、軽傷を負った。傷そのものは、傷痕の残る様な大したものではなかった。

 だがその日、レイナはマルコではなく、ハーフストンの家名を選んでしまった。


「貴方を傷付けた。私はあの日、無理をしようとしていた貴方を止めれたのに、そうはしなかった」


 レイナはそう言うが、マルコだって分かる。今の時代に、貴族の名前を守るという事が、並大抵の事ではないと。

 誰も口にはしないが、人界全体の魔力の強さの様なものが、ゆっくりと弱くなっていて、それによって使える魔法や技術が、魔力と共にゆっくりと減っている。

 貴族も同じだ。平民よりも強い魔力を持って産まれる貴族も、この百年近くは代を渡る毎に、その力を落とし始めている。

 そして最近になって、貴族の異様な子供の出来難さが、実は魔王の呪いではないかと、そんな噂まで立ち始めている。

 人界は、貴族と王族によって統治が敷かれている。統治には力が必要だ。覆されない力、それが無くなれば、どうなるか。

 必ず、争いが起きる。内からにせよ、外からにせよ、力の無い統治は覆され、酷い争いの火種となる。

 だから王族は、貴族しか入れない学園に、マルコの様な、僅かでも強い魔力を持つ平民を受け入れる様にし、卒業後は最低でも騎士階級を与え、貴族側に迎え入れている。

 しかし、貴族至上主義の社会で、その試みが成功したのか。

 その答えは否だろう。


「仕方ないよ。君は貴族で、僕は平民なんだ。君には、貴族の役目がある」

「だけど、それと貴方の扱いは違うわ」


 王族が決めた事と言えど、たかが平民が貴族と肩を並べるなど、彼らの気位が許す筈もない。

 平民出身の騎士は、この制度が出来てから、両手足の指で数えられる程度しか居らず、世代も一代で途絶えている。

 マルコは恐らく、卒業しても騎士にはなれない。


「レイナ、君は貴族で、僕は平民。それはもう、どうする事も出来ない。だけどね」


 水を一口含み、喉を湿してから、マルコは言う。


「聖堂で、レイナが助けに来てくれた時は、すごく嬉しかったし、今もこうして話していられるのも、正直嬉しいんだ」

「マルコ……」

「僕達は貴族と平民だ。だけど、ただのレイナとマルコでもあったんだ」


 テーブル越しに、マルコがレイナに向けて、右手を伸ばす。


「もう一度、また今日から貴族でも平民でもない、ただのレイナとマルコにはなれないかな?」

「私は……」


 差し出された右手を見る。

 自分に、この手を取る資格があるのだろうか。


 ──本当に大事なら、その手を離すな──


 意図は分からないが、賢者のあの言葉には、何か後悔があった様に感じた。

 レイナにあの言葉をかけたのは、本当に気紛れだったのだろう。しかし、レイナはもう間違えたくなかった。


「……私は、レイナ・ハーフストン。貴族のハーフストンだけど、ただのレイナよ」

「僕は、マルコ・ポートランド。貴族じゃない平民のポートランドだけど、ただのマルコだよ」


 マルコの手を取り、確かに握り締める。伝わる力は確かに、マルコからも返ってくる。

 その事が何故か可笑しくて、二人して笑い合う。

 不思議だと思う。昔は当たり前だった事が、少し時間が経つだけで、当たり前ではなくなってしまう。

 何故だろう。と、二人で笑い合っていると、二人の間のテーブルの真ん中から、透けた白銀のティアラと、透き通った銀の髪が覗いていた。


『……話は済んだかの?』

「わっ、ヒメ。何処に行ってたの?」


 驚いたマルコが、レイナの手を離すと、するりとテーブルからテレスティアが抜け出す。そして、マルコの傍に寄ると、どこからか取り出した櫛で、マルコの僅かに残っていた寝癖を直し始める。


『ここはあの耳長の所有地じゃから、色々見回っておったのじゃ』

「見回りですか」

『うむ、あの陰険根暗の事じゃから、何か仕込んでいてもおかしくはない。証拠に、下手くそな空間魔法の術式を仕込んでおったわ』

「それって、学園への直通の式なんじゃ……?」


 サナルカから渡された権利書とは別に、このアパートの部屋に置かれていた一冊の小冊子には、アパートの見取り図と、学園に直通で行ける転移魔法を掛けた扉の説明があった。


『心配するでない。下手くそじゃったから、妾がぱーふぇくとにしてやった。詳しく言うと、繋いだ空間の間に揺らぎがあったから、軽く固めてやったのじゃ』


 得意気に胸を張るテレスティアを横に、マルコがレイナを見るが、レイナも空間魔法に関しては専門外だ。一応、テレスティアの言っている事は理解出来なくもないが、頂上会話にはついていけない。


『して、主様。本日の予定はどうするのじゃ?』

「今日は買い物だよ。急な引っ越しだったから、足りない物を買わないと」

『うむ、資金なら任せるがよい。……イザベラの娘、なんじゃその目は』

「いえ、財産をお持ちなので?」


 この規格外の幽霊の事だ。一財産の一つや二つ所有していても、最早不思議には感じない。

 だが、幽霊の持つ財産というのが何なのか。レイナは非常に興味深かった。


『この前は銀でお叱りを受けたからの。今回はこれじゃ』


 言って、水面の様に波打つ空間から、マルコの手のひら程の革袋を取り出し、マルコに手渡す。

 渡された袋は重く、一瞬驚いたが、マルコは渡された袋の口を縛る紐を解き、中を見ると金貨がぎっしりと詰まっていた。


「ヒメ?」

『うむ、僅かではあるが、どうか納められよ』

「いや、嬉しいけど、この金貨、何時の?」

「マルコ、見せて」


 マルコが一枚の金貨をレイナに渡す。

 レイナはそれを眺めた後、皺の寄った眉間を指で揉み解した。


「あの、この金貨ですけど、いつ頃入手されましたので?」

『む? 詳しくは覚えておらぬが、耳長が今より外を彷徨いておった頃じゃな』


 いや、あの時代は中々に騒がしかった。と、懐かしむテレスティアを置いて、レイナは考える。

 話からすると、凡そ今から三百年は昔の金貨だ。つまり、今流通している貨幣とは、価値が違う。

 こんなもの、市場の支払いに使えば、どんな騒ぎになるか分からない。


(マルコ、彼女何時もこうなの?)

(こ、今回は大人しいよ? 前は、もっととんでもないの出してきたし……)


 非常に興味深いが、今はそれよりも、この金貨をどうするかだ。

 レイナは考えた。考えた結果、マルコに任せるしかなかった。


(マルコ、お願い)

(うん、流石にこれはね)


『主様、まさかこれもか?』


 二人の様子に気付いたテレスティアが、おずおずとマルコに問う。

 さて、どう答えるか。そう考えたマルコは、一つの答えに行き着いた。


「ヒメ、この金貨は今は使えないんだ。だから今度、使えるお金に替えてもらおうよ」

『む、それなら主様に問題は無いのか?』

「うん、多分だけどレイナなら、親切な古物商の人を知ってる筈だから」


 レイナからものすごい視線を感じる。マルコは買い物中に何か詫びようと決めた。


『イザベラの娘、それは真か?』

「……母の伝で、古い金貨に詳しい人が居ます」

『主様の益になるなら、妾はそれでよいぞ』


 よし、なんとかなった。

 マルコは洗い桶に皿とコップを浸け、外着に着替えに部屋へ向かう。

 取り敢えず、予算は多めに持っていこう。背後から感じる視線に、マルコはそう決めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る