第9話「人」
空腹が訪れない。疲労も一切感じない。辺りが暗くなってから横になると意識が遠のき、気が付くと朝になっている。
眠る前は好きなだけ走り回ることができる。思い切り叫び続けることができる。それでも変化は何もない。眠り、起き、身を潜め、そして夜になったら好きなだけ動き回り、また眠る。こんな日々を1週間続けた。あの日以来、人間には出くわしていないし、出くわさないようにも務めてきた。
目を覚ます度に期待してしまう。早く人間に戻りたい。あの時は熊になりたい、そして好きなだけ動きわまりたいという衝動に駆られていたが、今は人間に戻りたいという欲求の方が強い。むしろそれしか考えられない。それでも夜がやってきて熊になると無性に動き出したくなってしまう。この衝動は誰にも止められないのだろう。終わりのない日々を耐えるのは辛い。
仕事が嫌いなわけではないし、人間関係だって良好だった。私には戻るべき場所がある。しかし熊の姿では戻ろうにも戻れない。仮に人間の姿に戻ることができたとして、私の居場所が今でも同じ様に残っているだろうか。不在の時間は短いようで長い。
誰も行ったことのない場所に、英雄として足を踏み入れたのであれば戻り様はいくらでもある。それどころか、そんなことになれば歓待されてしかるべきだ。しかし今の私は自身のエゴに突き動かされて窮地に陥っただけなのだから、誰かが快く迎え入れてくれはずがない。そもそもこの状況をなんと説明すれば良いのだろう。思いを巡らせる程、私の居場所がなくなってしまったことが感じられる。
この退屈な日々は1年近く続いた。正確に1年を測ったわけではないが、途中から夜が訪れる度に木に記しをつけることにしたので、大体1年が経ちそうだということがわかる。寒い日も暑い日もあった。しかし、毛が生えたり抜けたりしたお蔭で気温に惑わされることはなかった。不思議なことに熊にやってくるはずの冬眠も経験しなかったのだが、何とか冬を越すことができた。食糧を一切口にしていないということも驚きだ。したこともない狩りをしたり、口にしたくもないようなものを口にすることを覚悟していたが、不思議と食欲だけは一度たりとも沸き立ってこなかった。これだけ大きな体を持っているのに、エネルギーの補充なしで生命を繋ぐことができている。雨が降っても木々が滴から守ってくれたし、地面のぬかるみも巨大な爪があるために気にもならなかった。夜に衝動に駆られる以外は何事も起こらない日々を1年分経験した。
そして人になった。
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