第10話「食糧」



いつも通り、目を覚ますとそこには毛むくじゃらな生物はどこかへ行き、すべすべとした人間の手足があった。少し蒸し暑い。気温に対して不快感を抱くのはいつ以来だろうか。満ち溢れた力が萎み、心身ともに弱った感覚もある。クマでいた頃はどれだけ力が漲っていたのであろう。気が付けば靴を履き、服を着ていた。地面の感覚は遠くなったが、踏ん張りの効きは格段に落ちた。



日差しがまぶしい。ここにある日の光はいつもと何も変わらないのだろうが、状況が変わった身としてはそれすらも新鮮に感じられる。昨日までとは打って変わり、全てが直接的で少し肌に痛い。



歩く感覚も異なる。クマでいるときは言葉通りノシノシと歩んでいたが、今はもっと軽快に進む。ただ、地面を掴む感覚は圧倒的に弱いので上がる足に対して、下げる足を慎重にせざるを得ない。



暫く進むと空腹を強く感じるようになっていった。この1年間で一度たりとも感じることのなかった空腹だ。その違和感は少しずつ膨らんできて、昼を過ぎたころには動けないほどになっていた。何かを口に入れなければならない。直感がそう叫んでいる。夜の咆哮以上に深刻なものだ。



過去にも空腹で動けなくなったことは何度かある。最近の話ではなく、小学生のときの話だ。決して貧乏だったというのではない。小学生は体力を考えずに必死に生きている。友達と遊んだり運動をしたりするときも食事のことなんて考えずに一生懸命に動き回る。そしてその動きがふと途切れて友達と別れた瞬間にようやく空腹に気が付く。そして足を前に出すのすら辛くなっている。家に帰れば食事にありつけるのだが、家に帰ること自体が困難と化してしまう。ぜえぜえ言いながら帰宅して何とか口に物を入れたときの喜びは他の何ものにも代えられない。



しかし今は山の中で、持ち物は何もない。食事にありつく算段もない。気が遠くなる中、目の前にテントが張られていることに気が付く。そしてその前にクマが立っている。



この地域にクマはいない。そして見慣れないテントがある。状況を把握した私は藁にも縋る思いで一歩一歩慎重にテントに近付く。クマは私に気が付き、少し思案したそぶりを見せた後、テントの中に私を案内してどこかへ行ってしまった。中には寝袋と、そして1年ぶりに見かける食糧があった。夢中で口に運びこんだ。テントの床を汚そうが、口の周りにソースを付けようが、なんだって構わない。一心不乱に食糧にかぶりついた。胃が十二分に満たされた私に空腹の次に訪れたのは途方もなく広大な睡眠の入り口であった。まるで巨大生物に飲みこまれるかのようにして私は眠りについた。恐れるものなど、もはやどこにもない。

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