第8話「テント」
クマの姿から戻れなくなってしまった。昨晩を十分に堪能した私は夜が明ける前に眠りについた。そのままで朝を迎えたら、元の姿に戻れないのではないかという疑問が生じたためだ。その疑問は朝の訪れとともに答えが出た。朝が来てもクマはそこにいたのだ。早々に下山して人間としての生活に戻ろう思っていたのだが、クマの姿で取り残されてしまった。十分に眠らなかった事が原因なのか、熊の姿を少しでも長く楽しもうと明るくなるギリギリの時間まで起きていたことが原因なのか、何もわからない。
今のところ空腹を感じていないし、疲労感があるわけでもないので急を要する困難には直面していないが、このまま戻れないというのはあまり好ましいことではない。私はクマでいることも好きだが、人間でいることも同じくらい気に入っている。嫌なことはたくさんあるけれど時には良いこともある。日常を何事もなく過ごすというのは決して悪くない。その日常に戻れないというのは、やはり好ましくはない。
悩んでも仕方がないのでテントの中でいったん休憩することにする。下手に明るいところを出歩いて人間に見つかるよりかは、テントの中に篭っていた方が厄介事に巻き込まれずに済む。窮屈さを感じながらも引き続きひと眠りすることにした。
辺りが再び暗くなり出したころ、外で何かが動いている感覚があった。テントからそっと顔を出してみると、そこには一人の男がいた。見たところ手荷物を持っている風ではなく、憔悴しきった表情でこちらに恐る恐る近づいてきた。その男の年齢は人間のときの私と同じくらいであろうか。それが猟師である可能性は否定できないが、襲われても困るので外に体を出してみた。男は驚いた顔をしたが、そこを立ち去らずにクマとにらめっこする形となった。
良く見るとその男は不潔な感じはないものの、頬がげっそりとこけていてここ何日も食べ物にありついていない様子であった。哀れみを覚えた私は食料を分ける為に、テントの外に出てテントの中へ入るように促した。言葉を発することができないので身振りでしか表現はできなかったのだが、男は理解したようでテントの中へ入りガツガツと食事を取り出した。クマである私は外で寝ようがテントの中で寝ようがどちらでも気にならないのでその日は外で夜を明かすことにした。
翌朝気が付くと、男の姿もテントの痕跡もなかった。
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