第6話「私はクマになった」
月曜の月夜、山にやってきた。雨の心配をしたが、幸運なことに天気予報は晴れを告げてくれた。これから大きく崩れることもなさそうだ。
自宅から車で二時間程進んだところに、人が寄り付くことのなさそうな手ごろな山があった。どの山も誰かの所有地で、大抵の山が観光地になっているか林業に使用されているか狩猟の場になっているものなのだが、この山は持ち主が高齢ということもありほとんど人が入ることはないという。しかも奥に入れば入るほど人里から遠ざかるので山籠もりをするにはうってつけだ。
この山を調べている間も、身支度を済ませているときも、車を運転しているときも、興奮が止まらなかった。途中でクマになってしまっているのではないかというくらい昂りが凄まじかったので何度もフロントミラーで自分の姿を確認したが、そこに映る姿は紛れもなく人間であった。ハンドルを握る腕もちゃんと人間のものだ。
恐れるものなどない。一晩だけクマを堪能して、また元通りの人間の生活に戻っていくだけだ。短い間楽しんだら、とりあえずその回はおしまい。次の機会がなかったとしてももう悔いることのないように過ごすつもりだし、またチャンスがあるのであればラッキーくらいにしか捉えていない。
都会から離れるにつれ段々と緑の風景が増える。山の中に車を停めると怪しまれかねないので、人里の適当な駐車場に車を停める。手ごろな駐車場決めに難儀した。一晩でも見慣れない車が止まっていれば怪しまれかねないし、そもそもここは駐車場の数が圧倒的に少ない。
そこから歩いて山に入る。地図で見る限りはすぐそこかのように思えたが、実際に足を踏み入れてみるとその広大さに驚く。緑で視界が遮られるし、足場は悪い。そしてなにより山である以上延々と坂が続くので思ったよりも進みが遅くなる。今回は一応登山道ではあるものの、人がほとんど通らないところなので、どちらかと言うと獣道に近い道を歩むこととなる。うっすらと人が通れるような道筋が見受けられるものの、草が生い茂っているので楽々と進むことはできない。
植物が肌に触れる感覚はとても気持ちが悪い。においも独特でどんどん気力が失われる。クマとして安心して過ごすにはそれなりの苦労を体感しなくてはならない。ある程度の覚悟はしていたがここまで辛いとは思わなかった。それでもクマになるという野望をこんなところで費やすわけにはいかない。
まだ日は高い。反対にこんなところでクマになるわけにもいかない。まだコンクリートの道路は近い。もっと深くに入らないといけない。期待と興奮と不安と疲労を全て胸に押し込んで先へ先へと進む。
軽い休憩を交えながら三時間、頑張った。車で二時間、歩いて三時間。ようやく人里から遠く離れた場所に辿り着いた。帰れるかどうかの不安もあるが、その時はその時だ。まずはクマになることが先決だ。ひたすら夜を待つ。寒い時期なので虫はほとんどいないが、山の経験がないのでその辺りのことはよくわからない。出発前と同じく、虫よけのスプレーを体中に振りかけ、本格的な食事をとる。クマになったときに大量のエネルギーを消費するかもしれないので、食料は多めに持ってきた。おにぎりで持続性のある栄養を取り入れ、パックのチキンでタンパク質を摂る。念のためにサプリメントでビタミン類も補っておく。普段以上に体を労わらないといけない。全力で楽しむためには、限られた資源とは言え、全力で体を磨いてやる必要もあるのだ。
持参したテントを張り、ハリケーンランプに明かりを灯し、読書をしながら夜を待つ。本物の動物に襲われたら、そのときはそのときだ。この辺りにクマ以上の大きな生物は出ないので、クマになったあとはこっちのものである。
そうこうしている内に夜が来た。そして私はクマになった。
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