第2話「興奮」



翌朝、気が付くとほとんどが元通りになっていた。けむくじゃらな腕はなくなり、ごつごつした足もどこかへ行ってしまった。目線の高さも元に戻っている。服も何事もなかったかのように身に着けている。ラグマットについた何かを引っ掻けた跡だけが今も残っている。



夢ではない。その傷跡が全てを物語っている。しかし不可思議な現実を目にしても日常を進める以外に道はない。いつも通りコーヒーを淹れ、トースターでパンを軽く焼き、ストックしておいたゆで卵を冷蔵庫から取り出す。嵩張るからと取るのを辞めた新聞の代わりにiPadで定期購読している電子新聞に目を通す。同じような出来事が私以外の身にも降りかかっているのかもしれない。そこらかしこで起こっているかもしれない。私だけが特別な出来事に遭遇したのではなく、大勢の人間が一斉にクマと化していた可能性もある。そう信じてみたくなる。



自身を落ちつけるために黒く苦い飲料に口をつけ、焼き目のついた小麦粉の塊と、タンパク質のエネルギー源を摂取する。いつも通りであれば割かし気に入っている朝のメニューなのだが、今日だけはどれもこれもが無味無臭に感じられる。昨晩の獣くさい臭いのせいだろうか。それともクマになっていたという事実だろうか。新聞を捲ったところでこの特別な出来事がその他の人間にも起こっていた事実には突き当らない。試しに個人がネットに短文を投稿できるサイトを覗いてみても同様の現象に苛まれた人間はいないようだ。



何か特別なことがあったような記憶はない。何か特別なものを食べたということもない。いつものように仕事から帰り、スーパーに寄り、適当に半額弁当を購入し、家に帰って、食べた。日中はいつも通りに働いていたし、眠る前の行動でもおかしいところはなかった。強いて言うなら、そうだ、眠る前に外を眺めてみたら月光が思ったよりも強く映ったのでぼんやり眺めていた。しかし狼男伝説でもあるまいし、大の大人が一晩足らずでクマになるとは思えない。今までも月を見たことは何度だってあるが、クマになったりしたことはないし、何よりも血が騒いだことだってない。そういえばクマになった瞬間には異常事態に遭遇した際の興奮とはことなる一種の高まりが感じられた。戸惑いではなく、内なる力が目覚めようとしているとでも形容した方が正しいかもしれない。案外悪くない気持ちであったことは認めざるを得ない。

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