鷓鷺

第1話「熊」



鏡の前に1匹の熊がいた。



熊なんてテレビか本かでしか見たことがないが、きちんと認識できる。毛むくじゃらで、爪は鋭く太い。目は円らで、鼻は黒いレザーをぐいぐい縫い付けたような具合になっていて、足は短く、胴は長い。体全体はとても大きいものだと思っていたけれど、実際はどうだろう。鏡の中の熊は随分大人しくしているためか想像よりも小さく映る。じーっと鏡の中の自分の姿に魅入っているように見える。そしてこれが一番重要な問題なのだろうが、私の姿が鏡の中のどこにもない。



私と鏡の間を遮るものはないはずなのだが、熊の姿だけが鮮明に映っている。試しに鏡に近付いてみても熊が鏡に近付くだけで、私の姿はどこにも映されていない。これはつまり、私が熊になってしまったということなのだろうか。目線もいつもより高い気がしてきた。



私が手を振り上げれば鏡の中の熊も手を振り上げる。振り上げた腕は天井すれすれである。少しジャンプでもしたら天井に届いてしまいそうだが、床が心配なのでそんなことは決してしない。重さで抜けてしまい下の階の見知らぬ住民の部屋にダイブしてしまっては後処理が面倒だし、そもそも床自体をこの爪で傷つけてしまう可能性だってある。その証拠に敷き詰めた安物のラグマットには既に言葉通りの爪痕ができている。



これは夢だろうか、それとも現実だろうか。真偽のほどはわからない。日ごろから夢を見るタイプではあるが、ここまで鮮明な夢は見たことがない。実際に立って歩いて、頭すらはっきりしている。そして何より出来事が具体的過ぎる。腕を振り上げたときに感じる天井との距離感、爪で足元を傷つけている感覚、きしむ床、そして獣臭さ。これが夢であるとしたらどんなに現実的な夢であろうか。



今できることそれは唯一、再び床に就くことだろう。時計を見ると深夜3時だということがわかる。視力が悪いのでコンタクトレンズなしではこんなにも時計をはっきりと見ることはできないはずなのだが、今の私は大抵のことでは驚かない。



これ以上床を傷つけないように慎重に歩を進めてゆっくりと布団に入る。ベッドを設置していなくて本当に良かった。掛け布団をそっと外し、そのまま敷布団に横たわる。あぁ、そうか。こんなに毛が生えているのだからわざわざ布団の上に寝なくても良かったのではないか。普段よりも自重を多めに感じつつ、瞼を閉じる。普段よりも呼吸が荒い。これが大きな体を持つ動物の宿命なのだろうか。そういえば、身に着けていた衣類は破れて床に落ちているなどはなく、姿を消してしまった。

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