第二章32 《その蛮勇、匹夫にすら至らず》

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「ちょっと……待ってよファー!」



 逸る気持ちで教室から飛び出した俺は、まるで悪鬼に追い立てられている様な心地がした。

 身体中からはねっとりとした冷や汗が噴出し、特に四夜の細い手首を掴む右手から、しっとりと手汗が溢れだし滑りそうになる。



「今はっ……何時だ!はっ……はっ……」



 左手首につけていた腕時計で日時を確認する。


{9日 11時 55分}


 やはりあの事件の瞬間まで5時間あるか無いか、と言った所か。

 無作為に揺れる心が恐怖心と焦燥感を駆り立てる。

 だが、そうやって後先考えずに兎に角目の前の危機ばかりに目が行っている俺の出来損ないの目には周りの事が何も映っていなかったのだ。

 特に……人の心など尚更だ。



「もうっ……いい加減にしてよ!」


「なあっ!?」



 握られていた右腕を上下に思い切り振り切ると、四夜はその場で悲痛な叫び声と共に立ち止まる。



「何なのよさっきから! 急に目が虚ろになったからどうしたんだろう?って思ってたら、私の事いきなり掴んでベタベタ触ってくるし! 訳分かんない事言い出したと思ったら今度は無理やり授業を抜け出して逃げるとか言い出すし! 一体どうしちゃったのよ……。何とか言いなさいよ、バカッ!」


「よ……四夜、俺は……うわっ!?」



 ドンッ!


 慌てて駆け寄る俺に四夜は糾弾の叫びを上げると、潤わせた瞳から一筋の涙が溢れる事にも構わず、両手を前に出すと凄まじい力で俺を突き飛ばす。

 固く冷たい廊下に尻餅を付いた俺は顔をあげる。

 四夜はうつむき、突き飛ばしたままの体制で固まっていた。

 良く見ると彼女の肩は小刻みに震えているようだった。



「まっ……待ってくれ四夜! これには訳が有るんだ! 頼むから早まるな!」


「うっさいバカ! 何なのよあんただけ……ずっと、ずっと死にそうなくらい追い詰められた顔して! どんなに鈍感なバカでもこれだけ"助けて"って顔してたら気が付かない訳が無いじゃない! 何があったのよ!」



 俺には四夜の言っている事の意味がさっぱり分からなかった。



「俺が……"助けて"だと?違う、全然違う。全然違うぞ!」



 唐突な俺の反抗に少し面食らった様な反応をする四夜は、一歩後ずさる。



「助け無くちゃいけないのは俺何かじゃない、お前の方だ!」


「そんな事頼んでない!勝手に独りよがり拗らせて……バッカじゃないの!」


「独り……よがり……」



 四夜の一言に、苦くて硬い物が胸に突っ掛かる様な苦しい感覚を覚える。



「何も……知らねぇ癖に。勝手に言ってくれやがってッ!」


「勝手なのはどっちよ! 一人で知った様な顔して、強引に私を引きずり回して!」


「うぐっ……」


 余りの正論にぐうのでも出なかった俺は、悔しさに下唇の内側を前歯で少し噛む。



「せめて、何があったのか話しなさいよ。私で……良かったら聞いてあげるから」



 これが、現在の四夜に出来る最大限の譲歩であり、慈母のごとき許しの機会だったのだろう。

 だが俺は、そんな四夜のサインを見極める事が出来なかった。

 次の瞬間、彼女の、心からの優しい一言を考え無しに踏みにじってしまったのだ。



「駄目だ。言えない……」



 これに対する四夜の返事はひどく素っ気ない物だった。



「そう……もう良いわ」


「もう良いって何が……」


「何処へでも、好きな様に逃げ回っていたら良いじゃない。でも……私が付き合うギリは無いから」


 その様に言い残すとクルリと踵を返し、もうお話は終わりだとでも言わんばかりに無言を貫く。

 そんな四夜の態度の変化に気が付いた頃にはもう手遅れだった。



「おい、四夜……何処に行く気だ。待て、行くな……。四夜ぁ!」



 スタスタと元来た道を戻ろうとする四夜を、俺は慌てて追いかけ追い掛けようと立ち上がるが、そんな哀れな俺に、彼女は冷たく言い放った。



「ついて来ないで。もし来たら……許さないから」



 一方的にそう言い放った四夜は決して振り替える事はせず、ゆっくりと廊下の窓ガラス沿いに歩き始める。

 木製の手摺にその身を預けて歩く彼女の後ろ姿はとても危うく感じられた。


 その時、窓ガラスの外側に真っ赤な椿の花が落ちているのが目端に写った。

 2つ、3つとそのほとんどはアスファルトの上に転がる様に落ちており、雨上がりの朝露で濡れた花弁はキラリとしていた。

 朝露が赤い椿の花弁の色を投影して、残酷に輝く。


 四夜の背中がどんどん遠く、小さくなっていく。

 あともう少しで届かない所まで行ってしまうのが何故かありありと実感できる。


 これこそがリアルのデジャブなのだろうか?



「待って……くれ……。行くなぁーっ!」



 転げる様に走り出す俺は……俺は!

 彼女の元に駆け寄ろうとした。

 どう出来る訳でも無いのに突き上げてくる衝動が、俺をそこで立ち止まらせる事を許してくれないのだ。


 それでも



「来るなと、そう言ったはずよ!」



 振り向き様に、一瞬だけ四夜の顔が見えた。

 余りの怒気に普段より一段と鋭く目端のつり上がった双眼からは一筋の目映い涙が……



「ぶべっ!?」



 視界が左斜めから凄まじい勢いでぶれる。

 彼女の渾身の右ストレートが左頬の斜め下の方から突き刺さり、軽々と俺の体を吹き飛ばしたのはその直後の事だった。


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