第一章30 《αの始まりとΩの袋小路》

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「ぁ……ぁ……ぁ……っ」



 思わず空気が抜けていく萎れた風船の様に間抜けな声が出て、俺はようやく『ナニカ』を認識した。

 やけに明るい音楽室のほぼ中央で、やけに目立っているグランドピアノに打ち付ける謎の水滴の色が「あぁ……赤いのか……」と理解出来た時には全てが遅かった。


 シンドロームの様に定期的に打ち付ける『ナニカ』の赤い水音が、リズミカルにオルゴールの奏でる音色との不調和音を紡ぎだす。

 そのメロディーが頭上から聴こえて来るのだと分かり、聴覚の指示するままに怠惰な眼球を水滴の出所へと向かわせる。


 その瞬間、俺の腰は糸の途切れた操り人形の様にヨロヨロと抜け、尻餅をつく暇もなく崩れ落ちた。

 余りの光景に、血走った青筋を浮かび上がらせる眼球以外に力が入らなかったのだ。

 初めに頼りない光彩を結んだのは、微かに光を反射する細い……とても細い透明の糸。

 それによって天井のタイルの隙間にくくりつけられた人の『腕』だ。

 指先は固く閉じられており、血の滴る深紅に染まった木箱を握り締めて離さない。


 妙にくぐもった音色はそれが原因か……などと現実逃避に走る俺のだらしない頭蓋に、拒絶したい景色の情報が、電波として神経を伝って焼き付けられる。


 そして、ゆっくりと『ナニカ』を理解する。


 大の字に四肢を広げたまま天井にくくり付けられ、身体中の何ヵ所にも赤黒い殺傷あとの見受けられる……


 ……壮絶な最後を遂げた『四夜 一期』の亡骸だ、と。



「へ」



 彼女の酷い姿を認識した瞬間、引きつった口元から意味を為さない言葉が漏れた。

 それと同時に脳が激しいフラッシュバックを起こす。


 それはかつて見た悪夢、今俺がここにいる理由、『いとおしい少女』の血にまみれた姿。


 今の俺には、その2つの光景がだぶって見えどちらが現実か区別が付かなくなっていた。

 この瞬間、俺の脳裏を激しく過ったのは『恐怖』でも、『怒り』でも、『驚愕』でも無い。

 計り知れない程の『絶望感』だった。

 原因はわからない。

 それでも、全てがダメだと、無駄だったと木霊する自嘲が何処かから聴こえた、その時だった。



『可能性はまだある。時間を巻き戻してでも、彼女を救うのよ!』



 女性の声だった気がする。

 それも、俺や四夜と同じくらいの年齢の少女の声だ。



「誰だ!?」



 振り替えるが誰も居ない。

 そこにはモーツァルトやサリエリ等の肖像画が飾ってあるだけだ。


 今さらになって恐ろしくなった俺は転げ込む様に音楽室から逃げ出すと、必死になって四夜 一期から離れようとしていた。



「どうして……どうして……こんな事にっ!」



 周囲を気にする余裕などみじんも無かった。

 恐ろしい程に真っ暗な学校の廊下を、ドタドタと分かりやすい足音を立てて逃げる。

 もしここに殺人犯がいたら、即座に口封じをされていた事だろうが、そんな事まで思考が回らなかった。

 目端からは涙が頬を伝い、汚ならしく流れ出る鼻水と混ざる。



「嫌だっ……嫌だ!うべっ……」



 恐怖に足が震え、角を曲がり切れなかった俺は顔面から廊下のフローリングされた床に突っ込んだ。

 衝撃と共に殴られた後の様なキナ臭さが思考を支配する。

 それでも呻き、たどたどしい足取りで本来た階段を目指す。

 やっとの想いで階段にたどり着いた時には、既に息は荒く途切れていた。

 そこから一歩足を踏み出すだけでも恐ろしく体が重い。



「あ」



 だが、踏み出した右足が階段を踏み締める事は無く……そのまま体制を支えられなくなった俺の体は地球の重力に手繰り寄せられ、踊り場に向かって頭から自由落下を始める。

 恐ろしくゆっくりと……ゆっくりと地面が迫って来る。

 そして次の瞬間、まばたきの間に視界がホワイトアウトした。


 訪れるはずの衝撃は無く、気が付けば真っ白な空間に放り出されていた。

 周囲にはありとあらゆる時代の時計が浮かび、歪み消えては、又生まれるを繰り返す。

 落ちているのか、浮上しているのか意味不明な浮遊感を感じながら周囲に目を向ける。


 それは見たことのある光景だった。

 次第に世界に細かいヒビが入り、取り返しが付かなくなるまで一気にそれが広がり、世界の終演を物語る。


 気が付けば崩壊は目映い光となって視界を覆い尽くす。



 人生で、最も長い4月が、幕を挙げようとしていた。


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