第30話 恋人宣言

「先輩……?」


 太一が戸惑いの表情を浮かべて、梢へと振り返る。けれど梢は太一を見ない。まっすぐに浩文を見て、


「ごめんなさい、津島君。私、やっぱり七草君の応援がしたい」


 津島はその言葉に目を見開き、次いでニカリと笑うと、


「もちろん、それは梢さんの自由ですよ。七草の奴がそれを望んで、それを実現しましたからね」


 頬を染める、梢と太一。そして目を三角にする優芽。


「が、応援だけですよ。声に出して教えるのはもちろん無し。いいですね」

「それはもちろん!」


 と、元気よく返事をして梢は握ったままの太一の左肩をさらに強く握りしめる。別に痛くとも何ともないが、明らかに励まし以上のメッセージ性を太一は感じた。振り返って梢の表情なり、視線なりを確認したいがそこはグッとこらえる。


 どのタイミングで肩を掴まれただろうか? と考えると持ち駒を使おうとした辺り。ということは、持ち駒を使ってはダメだということになる。太一は伸ばした手を引っ込めようとして……


 また、強く肩を掴まれた。


 完全に教えて貰っているのと変わらない状況だ。このままでは将来の披露宴でのケーキカットの時「二人の初めての共同作業です」という決まり文句が嘘になるのではないだろうか。


「太一君、鼻の下伸びてる」


 傍らの優芽から冷たく声を掛けられる。だが、そのおかげで考えるべき事を思い出した。


 そう、つまり持ち駒を使うのだ。で、さっきやろうとしていたことにも文句がある。となると、つまり“守る”ということがいけない、と梢は言っていることになる。


(じゃあ、どうする?)


 守るのがダメなら攻めるしかない。太一はそこにたどり着いて、今度はじっと浩文の王を見据えた。心なしか肩の圧力が減った気がした。

 相手の王を見据えていると思い出す。詰め将棋のことを。


(そうか、相手の王はもうすぐに詰められるんだ。で、次の一手は持ち駒を使う……)


 梢の考えに到達した気がした。改めて持ち駒を確認する。歩が二丁に桂馬に銀。詰め将棋のルールだと必ず王手を掛けなければならないから、これで王手を掛けることを考えてみた。


 歩はまず無理だ。王の頭にスペースがない。銀も同じ理由で却下。王の横と下にスペースがあるが、銀は横と真後ろには動けないから死角になる。しかもそんなところに置いたら、王か香車の餌食だ。


 桂馬なら王手を掛けられるが、そのためには相手の金の真ん前に駒を置かなくてはならない。置いた瞬間に金に食われて終わりだ。後が続かない。


 梢の考えは、持ち駒を使うことではないのだろうか?


 太一は頭を振ってもう一度考える。歩と銀では王手を掛けられない。ならば桂馬を使うしかないが、使うと次には金で喰われるのだ。同じ結論に達してしまう。いや、詰め将棋では無駄と思われる一手をわざと打って相手の駒を動かす戦法もある。


 この場合だと桂馬を使って、金を動かした後に銀を打つ。けれど、それで打ち止めだ。後が続かないから桂馬と銀を順番に相手に差し出すこととかわらない。


 ――やり直し。


 桂馬を打つことは正しいと考えよう。全部巻き戻しては先に進まない。桂馬を打つ、相手の金が上がる。相手の王の斜め前が開くことになる。角でもあれば、長距離から王手を……


 ん?


 視線を自陣へと向けると打つまでもなくそこに角があった。


 待て。待て。――待てよ。


 するとどうなる? こちらが桂馬で王手を掛ける。浩文がこちらの角に気付かずに金を動かせば角で王を取ってしまえばいい。気付いたところで浩文に出来ることは、王を動かすことだけだ。しかも今まで王のいた場所に桂馬を効かせたままで。


「これだ!!」


 押さえきれない歓喜の声と共に、太一は桂馬を打ち込んだ。

 その声が、浩文を警戒させたことは言うまでもないが、相手がどんなに警戒しても、最善手を打っても王を詰めるのが詰め将棋というモノなのだ。


 実際、最初は太一の手に余裕の表情を浮かべていた浩文の顔が、はっきりとわかるほどに強ばるまで幾らも掛からなかった。まず桂馬を取ろうとしていた金から手を離す。動かせば王を取られることに気付いたのだ。


 浩文の挙動が急に慌ただしくなった。まず、自分の王の状況を改めて確認。そして、浩文の持ち駒を確認。それから、太一のあまりにも無防備な玉を見る。自分の持ち駒を確認。


 そして瞑目。


 周囲から唾を飲み込む音が時間差で聞こえてくる。太一は息を止めて浩文の動きをずっと見ていた。その肩に指の感触が強い。


「……参った」


 ほとんど突然と言ってもいいタイミングで、浩文が頭を下げた。


「…………は?」

「だから負けだよ。俺の負け。七草が俺を詰めるためには一手あけなくちゃならんが、俺の方はその一手で七草を詰める手が続かない。つまり俺の負け」

「そう……なんだ」


 全てを台無しにしてしまいかねない太一の呟きは全員で無視することに決めた。どちらにしろバックには梢がいるのだ。太一の勝ちは揺るがないだろう。


「勝利者に祝福を。思えば俺はずっとお前のそういうがむしゃらに攻め込んでくるところにやられていたのかもしれんな」


 その言葉に、梢が、周囲の全員が頷いた。もちろん優芽には事情がよくわからないのだが。太一は差し出された浩文の右手を握りしめる。


「会長も強かったですよ。これからは味方だと思うと心強いなぁ」


 ――その言葉が、七草太一の対生徒会戦終結宣言だった。


                 *


 それから後片付けをしたり、だべったりしていたので太一が学校を出る頃には、すっかりと日が傾いていた。そして、その傍らには梢と優芽の姿がある。太一はのほほんとしたものだったが、女性二人の間には火花が飛び散るほどの緊張感が充ち満ちていた。


 が、そんな緊張感もエスカレーターを降りてしまえば、熱気に包まれて減衰してしまう。八月は過ぎたとはいえ、まだまだ残暑は厳しい。


「すいません先輩。全部事後承諾になってしまって」


 左手を開いたり閉じたりしながら、太一が掛けたその言葉に梢は不審そうな目を向けた。


「何の話?」

「えっと、今日の将棋大会についてです」

「今さら、その話」


 言いながら、せわしない太一の左手を自分の右手で握りしめる梢。


「で、手をつなぎたかったんでしょ。それぐらいなら良いわよ」

「せ、先輩!」

「押し倒すのは無し」

「てい!」


 いつの間にか二人の背後に回っていた優芽が繋いだ手をチョップで叩き切る。


「何すんだ!」


 と、わめく太一を無視して優芽は梢を歩道の端に引っ張っていく。その優芽に引きずられるままについて行く梢だったが、その口が爆弾を落とした。


「ごめんなさい、優芽さん」


 効果は絶大だった。優芽の足が止まり、振り返るその美貌は凄絶に歪んでいる。そして、ゆっくりと尋ね返した。


「……どうして謝るの?」

「前に言っていた話とは違ってしまったから。嘘ついてごめんなさい」


 優芽は梢の肩を掴んで揺さぶる。梢はされるがままに揺さぶられているが、言葉は止まらなかった。


「でもね無理もない話だと思うの。純粋培養だったところに毎日毎日『好きだ、好きだ』って言われ続けたら、もうどうにかなっちゃうでしょ」

「気の迷いよ、梢さん」

「ごめんなさい。私、それ区別がつかなくて。それに相手が七草君なら、まず安心でしょ。嘘つけない人だもの」


 そういわれて、優芽は反論の組み立てに迷う。


「なにやってんです先輩。優芽も!」


 さすがに太一が割り込んできた。すかさず梢が答える。


「あのね七草君、あのケーキ屋さんからやり直さない? 私をナンパしたあのケーキ屋から」

「は?」

「今度は住所と電話番号、そうね携帯番号を教えてあげるわ」

「ちょっと梢さん!」

「優芽さん、これからもよろしく。私は長いつきあいにするつもりだから」


 七草兄妹の言葉がまったく聞こえていないかのようなマイペース。受け身に回った経験がほとんど無いのか、兄妹揃って目を白黒させている。


「あ、あ、あの先輩、そ、それってつまり俺の……」

「うん。彼女にしてくれる?」


 照れもせずまっすぐに太一に尋ねる梢。が、その表情が何かに気付いたように、一瞬弾け、次には太一を虜にした笑顔を浮かべ、


「ごめんごめん、順番間違ってたわね。好きよ七草君」

「あ、え、えっと……」


 夜討ち朝駆け、完全な奇襲の連続に太一は完全に劣勢に立たされていた。しかも本人に、劣勢を立て直す気概が全くない。このままなし崩しで負けてしまっても本望だと思っている。


「か、軽すぎるんじゃない、梢さん」


 総崩れの兄に代わって妹が踏ん張った。


「七草君の流儀に合わせただけよ。それに“い・も・う・と”のあなたには、関係のない話でしょ。私と七草君の間の問題なんだから」


 梢はピンポイント爆撃で優芽を沈黙させた。


「そうだぞ優芽。これは彼氏彼女の事情なんだ」

「調子に乗らない」

「あ、はい、すいません先輩」


 友軍であったはずの兄は、早々に寝返って敵軍といちゃつき始めた。


「…………このままですむと思うなよ」


 優芽はかろうじて呪いの言葉を吐いた――吐くことしかできなかった。


「とにかく、ス・ルーシャに行くわよ。今日は気分が良いし、記念日だからバンバンおごっちゃうわよ。盛大に酔っぱらいましょう」

「……それ、ケーキ屋に行くときの台詞じゃないですよ、先輩」


 その後、七草兄妹はともかく梢は宣言通りに酔っぱらった。兄妹におみやげまで持たせて、七草家への再びの来訪を強く望んだ。

 その希望には何の障害もなく、希望と言うよりは予定だと、太一と梢は感じていた。


 だが、二人は忘れていた。


 戦うべき相手がまだ残っていると言うことを。単純な力関係では計り知れない、複雑で難解な、


 ――大人の世界に勝利しなければならないということを。

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