第三章 ある家族の風景
第10話 すぐ迷う人は、こういう事を続けるらしいですよ?
梢はいつも通り、なんの器具にも頼らず時間通りに目を覚ました。
時刻は六時半。八畳間に一つだけ引かれた布団の上で梢は上半身を起こす。半覚醒状態のまま、何の気なしに周囲を見渡して、自分が一人であることを確認した。
――何かを感じるような心は、ずっと奥に閉まってある。
*
一汁三菜を守った朝食を、三角食べで順序よく口にしてゆく梢。そしてその様子をじっと見つめる女性が一人。梢付きのボディガード、白澄双華だ。
白を基調にした、涼やかだが隙のないスーツ姿で、肩口で切りそろえられた彼女の真っ黒な髪によく似合っていた。今はうつむき加減なので表情はよく見えないが、美人であるのは間違いない。
ただ、三日月のような怜悧な眼差しが他者を拒絶していた。
「双華さん、今日の予定は?」
もう間もなくで朝食を終えるという頃、梢が双華に尋ねる。今日は日曜で学校がない代わりに、父が出張中なので梢には公務があった。
「市内に新しい劇場が開きます。その落成式典にご出席いただきます」
「こけら落としの公演は?」
「もちろん、ご観劇いただきます。演目は……」
「いいわ。どうせ形だけのことだし」
ふてくされるわけでもなく、本当に興味がないかの梢は双華の言葉を遮った。
その代わり別なことを尋ねる。
「……ところで、いつ帰ってくるのです。随分と予定が長引いているようですが」
「本来の目的は達成したと連絡が入っております」
梢の父親、薬袋
だが、外国の組織がこの街に根付かれるよりは、とモア・ベターを選択した結果だった。
感染する前にペニシリンをぶち込むようなものだろうか。
梢の父親が、なぜそういう先走った対処療法を行っているかというと、彼がこの葉が丘市の市長だからだ。そして、伍芒高校の理事長でもある。
つまり、この街のあらゆる事象の中心――いや、創造者ということになる。
そういう事情を、いっそのこと太一に告げようと思ったことも何度かある。が、割と簡単にそれを告げた瞬間の光景が脳裏に思い浮かぶ。
「それと俺に何の関係が? それはともかく、お父さんの話をしたって事は先輩もその気になったんですね! 交際の許可をいただきましょう!!」
……目を危険な感じに輝かせて、さらに人の言うことを聞かなくなるのだ。
「梢様」
「何?」
あまり、愉快ではない想像に梢がテンションを下げていると、双華からもなにやら不機嫌そうな声が掛かる。梢も負けじと不機嫌そうな声で応じた。
「
梢は、ごちそうさま、と手を合わせながら情報の流出元を考えて、あっさりと結論に達する。恐らくは生徒会長、津島だろう。彼はある意味、自分以上に父に忠実だ。
「同時に報告が入っていると思うけれど、私にはそれを拒否する権限がないの」
「部長なのに?」
「部員がよほど素行不良でもあれば、その肩書きも生きてくるんでしょうけど」
「毎日毎日、先輩に愛を囁くだけの活動が素行不良ではないと?」
「どうも報告が不完全なようね。彼は熱心に詰め将棋解いているわよ――一人で」
「梢様」
声が改まる。
「御身の重要さを、もう一度ご認識いただきたい、あなたはこの街の要なのですよ」
「――私自身に価値は無くてもでしょ」
双華のしつこい厭味に、思わず梢は普段なら口にしないような最重要機密を投げつけていた。双華はそれを変わらぬ双眸で受け止めていたが、やがて抑揚のない声でこの会話の打ち切りを別の言葉で、こう告げた。
「――何ほど、ご自愛の程を」
*
最悪の気分で式典に出席する。双華が用意してくれたらしい、ライトグリーンのワンピースのデザインが割と好みだったのが、また癪に障る。
いつも通りその気分を表に出さずに、すまし顔で突っ立っていると次から次へと挨拶してくる者がヒキを切らない。知った顔は半分ぐらいだろうか。
居並ぶ関係者は大なり小なり父と関わっているので皆、追従や揶揄を欠かさない。その熱心さには、本気で頭が下がる。この街に投下した資金が回収されることはほぼ無いというのに。
つまりは、もっと大きな存在に媚びを売るためにこの街に貢いでいるわけだ。プレゼントに迷わなくて良いぶん親切なのかも知れない。
渡された原稿を無感動に読んで、あてがわれたシートに腰掛ける。ビロードの肌触りが心地よい。そういえばこんなことをしているのは、この劇場が“こけら落とし”だったからだ。
そのための演目が、何処かに書かれていたと思ったが良く覚えていない。まぁ、良いだろう。本当に楽しみにしている映画の情報は入れない主義だ。図らずもそういう状態になってしまったわけだし、ここは純粋に楽しめる内容であることを期待すればいい。
間違っても戦争を絡めた悲劇みたいなベタな内容で「こんな馬鹿な物語を作る原因になるのならば、戦争なんか無くなればいいのに!」というような、式は間違ってるけど答えは同じ、というような事にはなりませんように。
――なった。
*
ムシャクシャした気分を振り払うためには、アルコールの助けが必要だった。だが市長の娘が昼間から飲酒では格好がつかない。つまりは、またケーキだ。「ス・ルーシャ」だ。一ホールぐらいむさぼり食ってやる!
ごちゃごちゃとうるさい双華は一睨みで振り払った。式典が終われば今日のスケジュールは全部オフだ。帰りに寄り道して、ケーキを買うぐらいの自由はあるはずだ。
“ご自愛”を求めるなら尚のこと。
商業地区を抜けて、住宅街へ向かう。これは建物の種類が全然違うので、梢にも簡単だった。さて、問題はそこからだった。
あの時は太一が案内してくれたが今は全くの徒手空拳。あの時太一は携帯を使っていたようだが、自分には絶対無理だ。携帯を持ってはいるが自分から使ったことはないのである。
ここは記憶を頼りに道を辿るしかあるまい。こんな事もあろうかと目印を覚えていた。まずは道端に停まっていた赤い車だ。
――ない。
いや、めげてはいけない。塀の上に並べられた空き缶の方がわかりやすい目印だったはずだ。風紀上好ましくないのは理解しているが、この場合は目をつむろう。
――ないな。
誰かが街への奉仕活動に目覚めたらしい。それはそれで喜ばしいことだが、この場合は困った。非常に困った。
そもそも目印を探すときに、何の気なしに歩き続けていたのも良くなかった。加速度的に自分の居場所を見失っている事に気付いたのは、完全に手遅れになってからだ。
迷子、という高校生という年齢に似合わない単語が頭の中で明滅する。しかも市長の娘が、その街で迷子。なかなかバラエティ向けの話題が提供できそうだが、出来れば自分は傍観者でありたい。
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