第4話 油断は失敗を生み、失敗は変化をもたらす

「それにしてもナンパしてきた割には、文句ばっかりじゃない。もう少し、私を立ててみれば」

「いや、あのこれナンパじゃないです」

「こんなに真っ正直に嘘をつく人初めて見たわ」

「俺、嘘は苦手です。俺はあなたがあまりに可愛いから声をかけたんです」


 そう言うと、太一は目の前にあったチョコレートケーキ――ザッハトルテをフォークで切り分けながら、首をかしげる。


「いや、美人だったからかな」


 当たり前のこと口にするように、例えば「今日は暑いですね」というのと同じぐらいのあっけなさで太一はそう言ったが、言われた方はそうもいかなかった。


 まず動きが止まる。ちょうどケーキを載せたフォークを口に運んでいたところだったので、いささか間抜けな風情だ。そして首元から上に向かって、徐々に顔の色が朱に染まってゆく。


「そ、そ、そ、それをナンパっていうのよ……多分」


 慌ててそう言い返すと、梢はストローからアイスティを啜る。太一は自覚があったので、それもそうだな、と納得した。そして、流れに身を任せることにした。


「それならそれでいいです。じゃあ、住所と電話番号を――」

「住所はともかく、今時、電話番号はないんじゃない? 今なら携帯番号とか、あとメールアドレスだっけ?」


 一瞬で切り返してくる梢。アイスティを飲んだ効果はあったようだ。朱に染まった頬も白さを取り戻していた。しかも、表情は穏やか。

 太一は、きっと教えてくれるだろうという確かな手応えと共にさらに尋ねようとする。


「じゃあ、それを……」

「それはダメ」


 ところが梢は返す刀でばっさりと切り捨てた。あまりと言えばあまりの反応に、さすがに太一も憮然となる。そんな太一の表情を見て、梢はまた愉快そうな笑みを浮かべる。


「そういうことは知らない方がいいのよ。今の安全が大事ならね」


 まただ。


 また、自分が飛んでもない重要人物、もしくは有名人だと言わんばかりのこの口調。それが誇大妄想の類なのかどうか、太一が今ひとつ冷静であればもう少し注意深く、梢と接することを心がけていたかも知れない。


 しかし、このときの太一は完全に常軌を逸しつつあった。なにしろ、梢の妙な言動を、


(それならそれでも可愛いではないか)


 という風に受け止め始めていたのだ。かなり侵されている。


「あ、じゃあ名前も偽名ですか?」


 どうせならとことん付き合ってみよう、という感覚で太一が切り出すと、


「それは本当。実は私の名前を知っているかどうかはテストの一種だったの。君は合格。本当に私の名前、というか“薬袋”っていう姓に聞き覚えがなかったでしょう?」

「ありませんね」


 まっすぐに答える太一に、梢は満足そうな笑みを浮かべた。


「でも、そんなよくわからない事情があるなら、俺なんかと関わり合いにならなくても……ひょっとしておしゃべりが好きなんですか?」


 声をひそめて――他に誰もいないのに内緒話をするような声で――太一は梢に尋ねる。瞬間、梢は棒でも飲み込んだような表情を浮かべ、そして次には自嘲気味の苦笑を浮かべ、


「……そうね。自分でも今まで気付かなかったけど、そうなのかも」

「“そう”?」

「人と話すのが好きってこと」


 そう言ってから、グランマニェがたっぷり染みこんだケーキを頬張ったのは、多分に照れ隠しだろう。それから景気よくモグモグと噛み砕くと、ゴクリと飲み込んだ。


「さて、そうと気付かせてくれた君にはおしゃべりに付き合って貰うわよ。とりあえず、そのケーキ食べちゃえば」

「あ、はいはい」


 素直に従う太一。どうにも力関係が定まりつつある。そうして、太一がフォークを口に咥え、抵抗できなくなったところで、梢のおしゃべりは始まった。


 まず始まったのが、随分前に公開されていた映画の話だった。太一はタイトルだけは聞き覚えがあるだけで無論観てはいなかったのだが、どうやら観ていなくて正解、という映画だったらしい。


 その映画に対する不満を、あらゆる角度から考察して多角的に説明してくる。随分と長い間、不満だったことが窺えた。ほとんど怨念じみている。


 そういう風に愚痴だけを聞かされると、気分も滅々としてくるのだが、次に梢が語り出した内容は、ある少女漫画の話で、その作者の漫画を買ってみたら全部がとても面白くて、そういうときは数日間の幸せが保証されている感じがして気分がいい、とか重要人物らしいのに意外と小市民的なことを言い出す。


 その後に、少女漫画の話はさすがに太一にはまずいかと謝ってきたのだが、太一が自分には妹がいるので、実のところその漫画家の名前は聞いたことがある、と答えると今度是非読んで欲しいと、実に嬉しそうにお願いしてきた後、その妹の話を太一にせがんでくる。


 太一は、妹がお笑いに嵌っているという話をすると、いきなり自分もそうだと切り返してきた。挙げ句、とんでもないマイナー芸人の名前を挙げてきて、あれはどうだったか? これはどうだったか? 私はこう思う、などと品評を始める。


 太一がその芸人についての妹の感想を思い出そうとしていると、どこからかメロディが流れてきた。太一が店の有線か何かかと思って聞き流していると、


「君の携帯じゃないの?」


 と、梢が指摘してきた。言われて太一はポケットの中の携帯を取り出すと確かにピカピカと光を発していた。もちろんメロディは鳴りっぱなしだ。開いて番号を見るが知らない番号。それでもとりあえず出てみると、


『太一君! 今どこ! なにやってるの!』


 といきなりの怒鳴り声。聞き耳を立てていたわけでもないのに、梢の耳にまではっきりと聞こえてくるその声は確かに女の子のものだった。


「誰? ああ、妹さん?」


 話している勢いが止まらなかったのか、梢がいささか行儀悪く割り込んでくる。


「そ、そうです。ちょっと待って……」

『太一君! 今の声何!? 女連れかーーー!』


 電話の向こうの声が止まらない。


『引っ越しの片付けだってまだまだ残ってるのよ! 少し出てくるって言っただけで、いったい、いつまで――』

「悪いと思ったから、今美味しいケーキ屋を聞いてだな……」

「……引っ越し?」


 妹の優芽の声が頭の中で反響する中で、梢の声が太一の胸に突き刺さってきた。反射的に、電話を切るとそのまま電源ごと切る。


 太一は何か声をかけようとして、そこで止まってしまった。梢がどういうわけか怒っているらしいのはわかる。だが、何について怒っているのかまったく見当がつかない。


 そんな太一の動揺を見取ったのか、梢の雰囲気がフッと和らいだ。


「……ごめん、私が先走っただけで君は悪くない」


 太一はこのまま仲直りできるのか、と期待を込めて梢を見るが、その視線の先には表情のない梢の顔。


「もう一度だけ確認するけど、高校生なのよね」

「あ、はい、高一です」

「引っ越しってことは転校になるのよね」

「ええ、名前は忘れましたけど、この街の高校に――」


 どうやら、引っ越してきたことがまずかったらしい、ぐらいまでのあたりをつけることが出来た。今までの彼女の言葉から考えると、多分外れてはいないだろう。だが、


 ――なぜ?


 梢が音もなく立ち上がる。スカートのポケットからむき出しの千円札を三枚取り出すと、伝票に重ねて置いて、何も言わずに店を出ていった。


 カランカラン、と扉に付けられた鈴が鳴る。入ってきた時には気付かなかった音だ。相当暑さにやられていたか、それとも彼女にやられていたか。


 実際、この状況で太一が考えていることといえば、


(笑ってると確かに可愛い。だけどさっきみたいに冷たい表情の時は美人だよなぁ。俺は美人の方が好みかも)


 である。


 実に太一は重症――重傷だった。ほとんど致命傷と言っても良い。


 そして、この葉が丘という小さな街も、この偶然の出会いによって致命傷を負っていたのである。


 ――つまり、この小さな盆地のシステムの崩壊はこの瞬間に始まっていたのだ。

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