帰りのタクシーでも噛まれる桜。

タクシーに乗り込んですぐ、メイは俺の肩に頭を乗せて眠ってしまった。よく考えれば、遠征の帰りである。疲れていないわけがない。


そして、反対側には碧先輩。


「さっき弄れなかった分、楽しませてもらう」

「……」

「と、言いたいところだけど、今はやめとく」

「え?」

「美々子さんが、走って出て行くのを見た。何があった?」

「はい……」


碧先輩に、美々子さんとの同棲が一旦中止されたことを明かした。


もちろん、俺に対する好意とか、そういうのは省いたけど。


先輩は興味深そうに頷き、


「やっぱりおかしいと思った。あれは美々子さんの演奏じゃない」

「ファンはわかってしまうもんなんですね……」

「だけど、美々子さんの場合、成長のスピードが人と違う分、本人もそれを操りきれていないところがある。日によって、安定感を欠く場面は、珍しくなかった」


ファンらしい、少し厳しいけれど、貴重な意見だった。美々子さんにそのまま聞かせてあげたいくらいだ。


「でも、そっちのほうは、私たちではどうすることもできない。美々子さんが自分で解決するしかないと思う」

「そうですよね」

「だから、今日は野並の家に泊まる」

「そうで……。え?」


何を言い出すんだろうこの人。


さっきまでの真剣な空気が嘘みたいに、碧先輩が俺の腕に絡みついてきた。


「野並の家に、美少女は三人。これは決まっていることだから」

「別にそんなルールないですよ?」


実際、美々子さんとメイが遠征していた夜は、まりあさんと二人きりだったのだから。


「それとも野並は、私をこんな夜中に、一人で家に帰すつもり?」

「いや、家の前で一旦タクシーに待ってもらって、荷物を持ってから、そのまま家に送ってもらえばいいじゃないですか」

「……こういう時は、最低限知恵が回る。こんな可愛い女の子が腕に抱き着いているのに、どうしてそんなに冷静に対処できるの?もしかして野並って、男の子の方が」

「それ以上はやめておきましょう」


もちろん、女の子が好きだ。うん。


先輩はこんな風に言うけれど、実際先輩の暴力的なまでの胸の柔らかさに、少し油断すると、思考を破壊されそうになってしまう。


数々の美少女との対戦が、俺を強くした。誇りに思いたい。


「つまらない。昔は野並、近くに行くだけでも、キョドってたのに」

「いつの話ですか……」

「覚えてない。でも、少しずつ馴れていって……。今ではまるで無反応。どうしたらいい?脱げばいい?」

「ヤケにならないでくださいよ」

「官能小説家になるって言ったら、そういう描写の練習に付き合ってくれる?」

「嫌ですよ……」

「でも、お姉ちゃんのエッチな漫画の描写の手伝いはしたのに」


碧先輩が、頬を膨らませた。あれは一応、直接的な行為が出なかったから、受け入れたのだ。


いや、受け入れたというよりは、無理矢理やらされたという方が、きっと正しいけど。


「野並、私より、お姉ちゃんの方が好き?」

「比べる話じゃないと思いますけど」

「比べる話をしてる」

「……無理ですよ」


碧先輩が、ため息をついた。


「野並は本当にバカ。適当に、私の方が好きっていっておけばそれで済んだ。ご褒美もあげたのに」

「ご褒美……」

「そう。ご褒美。気になる?」

「そりゃあ……。はい」

「じゃあ、もう一度チャンスをあげる。私とお姉ちゃん、どっちが好き?」

「……碧先輩です」

「……」


碧先輩は、少しだけ頬を赤くして、満足そうな顔をしている。


「よくできました。約束通り、ご褒美をあげる」

「……はい」

「腕。見せて」

「腕ですか?」

「そう。前腕」


しかし、碧先輩に腕を捉えられているし、逆側にはメイがもたれかかっている。これでは腕を動かすことができない。


そんな俺に気が付いたらしい碧先輩が、


「じゃあ、こっちでもいいや」


そう言って、俺の二の腕に着目した。


半袖をさらにまくり上げ、肩の位置で止める。


……じーっと、二の腕を見つめられている。


「あの、碧先輩。これがご褒美ですか?}

「急かさない。今、どこがいいか見てるから」

「……?」


そのセリフの意味はよくわからなかった。


けれど、なんとなく先輩の鼻息が荒いことには気が付いた。


「せ、先輩?」

「……ここだ」

「え?」

「あむっ」

「!!?」


碧先輩が、いきなり俺の二の腕にかぶりついてきた!


突然すぎて、腕を引きそうになったが、碧先輩にそれを阻止されてしまう。


「碧先輩、ちょっと。ねぇ!」

「仕返し。行きのタクシーで、私を仲間外れにしたから」


なるほど。メイと美々子さんが、首筋に噛みついた件のことか……。


だけど、あの二人と違って、碧先輩の吸血は、割と本気だ。


痛みこそあまりないものの、まるで樹液を吸う昆虫のように、何度も何度も舌を動かしてくる。


これはちょっと……。まずいんじゃ?


「碧先輩。センシティブすぎませんかこれ」

「じゃあ、ドラキュラの小説でも書くことにする。参考資料としてならいいでしょ」

「適当な動機すぎますよ」

「いいから大人しくしてて、ご褒美なんだから」


俺にとっては、心臓に悪いというか……。ご褒美とは言い難い状況なんだけど。


だいたい五分くらいして、ようやく碧先輩は、俺を解放してくれた。


自由になった二の腕に、テカテカと、碧先輩の涎が光っている。


……なんか、エッチだなと思ってしまった。が、さすがにそれはすぐ碧先輩が自分で拭いた。


「ごちそうさまでした。どうだった?」

「どうだったって」

「二人より、気持ちよかった?」

「気持ちいいとかそういう話なんですか?」

「……昔はもっと、反応が良かったのに」


碧先輩が、つまらなそうにつぶやいた。


「野並の反応が鈍くなっていくから、私のやることも過激になる。それはみんなも同じ」

「だからって、オーバーリアクションするわけにもいかないじゃないですか」

「……つまんない」

「そう言われましても……」

「徳重まりあも、美々子さんも、そこで寝てる小娘も……。確かに野並は、色んな美女に囲まれて、大変だと思う。だけど、みんな一人の女の子だから。それは変わらないよ」

「……わかってますよ?」

「わかってないから言った」


……先輩の言う通り、俺はわかっていないのかもしれない。


改めて、自分はまだまだ子供なんだなぁと思う。


小説を書いているだけで、どこか同じ高校生よりも、ちょっと前に進んでいた気持ちになっていたが……。改めなければ。


「すいません、気を付けます」

「じゃあ、もう一度チャンスをあげる」

「え?」

「今日は私と、一緒に寝るべき」

「……それはちょっと」

「なんで?」


碧先輩が頬を膨らませた。


「なんで?って言われましても……。ね?倫理的にと言いますか」

「客人をもてなそうっていう気持ちは無いの?」

「一緒に寝ることがもてなしになるんですか……」

「少なくとも、他の女と寝られるよりはマシ」

「どういう言い方してるんですか」

「この小娘はすっかり眠ってるし、ライバルは徳重まりあだけ……。ふむふむ」


そこから先輩は、何かを企み始めたようで、家に着くまでの間、一言も発さなかった。


……時折、にへへ。とか、ぬふふ。とか聞こえてくるのが、とても気になったけど。


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