メンヘラ文学巨乳先輩の涙。
今一度、状況を再確認。
俺は失神した神沢さんにのしかかられて、浴槽の端から身動きが取れなくなっている。
そんな俺を、光を失った目で見つめるのは……。神沢さんの妹であり、俺の小説家としての師匠であり、尊敬するべき先輩の――神沢碧さん。
「野並ぃ。可愛い顔してるねぇ」
……どんなキャラクターだよ。
神沢さんのトランスモードは、初対面だし、あぁそういう変な特徴もあるのね。なんて、軽く受け入れてしまったけど、碧先輩がこうなってしまうことは、予想外だった。
常に俺をからかい、ドキドキさせてくる先輩だけど、基本的にはクールというか、一線は超えてこない印象があったのだ。
「えいっ……。ふふ」
人差し指で俺の鼻の先を軽く弾き、笑みを浮かべる先輩。
こんな先輩は、見たことがない。
俺の中の、Mの部分が、産声をあげようとしている。
「先輩、やめてください……」
「やめる?どうして。野並は喜んでいるのに」
「喜んでなんか」
「ほらほら」
「くっ……」
さっきから、ことあるごとに、神沢さんの背中を押すことで、俺と神沢さんの密着度を高めようとしてくる。
この弾力には、馴れることができない。それに、長い時間風呂に浸かっているせいで、汗が出てきて、妙なムレ感というか……。とにかく、いかがわしいムードが、どんどん出来上がっていく。
これがR18指定のゲームだったら、おそらく何かが始まっていただろう。けど、現実はそうではない。いやむしろ、始まってくれた方がよかったのか?こんなの生殺しじゃないか……。
「野並が悪いから。私を散々放置して、美少女三人との日々に感けてて」
「だから、それは……」
「それは?」
先輩には、まりあさんのことは伝えていない。
先週は、一度も学校に行かなかった。
それでも、連絡はきちんととっていたのだ。
「小説の方は、ちょっと褒めてくれたじゃないですか」
「それがムカつく」
「え?」
先輩が、俺の鼻を、ギュッと摘まんだ。
「痛いんですけど……」
「それがムカつくって言ったの」
「ですから、何がムカつくんですか」
「最近、野並の小説のレベルが、上がってること」
「……喜ばしい話じゃないですか」
「師匠としては、ね」
何が言いたいのか、よくわからなかった。
それはきっと、頭がのぼせてきていることと、思考を奪う肉のクッションに、全身を包まれているせいかもしれない。
それでも、先輩の発言は、どこか抽象的で、理解するのが難しい。
「野並は、もし小説家になることができたら、もう学校には来ないの?」
「そりゃあ……。数は減るんじゃないですかね。先輩みたいに、プロとしてデビューしているのに、学校にも頻繁に顔を出す生徒は、珍しいと思います」
「野並がいつ来てもいいように、来てるだけ」
「すいません……」
「謝らないで」
「っ……」
摘ままれた鼻に、少しだけ爪を立てた後、ようやく離してくれた。
「そんな先輩を想って、もっと登校すればいい」
「もちろん、そうしたい気持ちはあるんですが……」
「野並は、問題を先延ばしにする傾向がある。いつもいつも、〆切を伸ばせだの、アドバイスは起きてから受けますだの……。それが、あの三人に対しても発生していると思う」
先輩は、気が付いているのだろうか。
まりあさんと、美々子さんが、俺に好意を寄せてくれていることを。
恋愛小説でデビューした先輩なら、わかってしまうのかもしれない。
「けど……。じゃあ、逆の立場になって、考えてみてくださいよ。急にあんな美少女たちに好意を寄せられて、あぁじゃあこちらの方にします。だなんて、簡単に選べると思いますか?」
「……私は、そういう感情が、わからないから」
「先輩……。頼みますよ。恋愛小説書いてるでしょう?男の心情を、少しでいいから」
「野並のせいじゃん」
「え?」
いつのまにか。
――先輩の目から、涙がこぼれていた。
その雫が、神沢さんの背中に垂れる。
「……あれ」
神沢さんが、ゆっくりと体を起こした。
そして、涙を流す妹を見て、困惑する。
「あ、あれ?ひょっとして修羅場?」
「え、えっと、これは」
「野並のせいで、恋愛小説が書けなくなった」
「ちょっと、碧?」
先輩は、俺と出会ってから、SFやミステリーに幅を広げ、それぞれ成功を収めていた。
てっきり、恋愛小説はお休みしているだけかと思ったのに。
……俺のせいで、書けなくなった?
忙しくなったから?
「……先輩、すいません」
碧先輩は、神沢さんに抱き着いた。
「……ごめんね?すごいタイミングで目覚めちゃった」
「いえ。むしろちょうどいいタイミングというか」
碧先輩の、鼻をすする音が聞こえる。
さっきまで、妙な雰囲気に毒されそうだった心が、一気に冷えていった。
「あの、俺、先に出るんで……」
「ちょっと待って」
「はい?」
「少しだけ、話しておきたいことがあるの」
「……はい」
神沢さんが、碧先輩の背中をさすりながら、こちらに顔を向けた。
「野並くんは、かっこいいよ。腹筋も割れてるし、優しいし、そもそも、顔がすごくいい」
「そんな」
「碧から聞いた感じだと、色々あって……。あんまり自分には自信が持てないみたいだけど、それでも、君はすごく優れた容姿を持ってる」
「……」
色々あって、か。
多分、母さんの話を聞いたんだろう。
「それを活かさない理由も、わかってしまう。でもね?君がそう思っていなくても、勝手に惹かれてしまう女の子もいるってことを、もう少し、わかってほしいな」
「そう、ですね」
――容姿には、頼らない。
だから俺は、小説家になりたくて。
「碧のことは心配しないで?ちょっとメンヘラ気味なだけだから」
「め、メンヘラですか」
「そうそう!めんへ……って、痛い!」
碧先輩が、神沢さんのわき腹を思いっきり抓っていた。
その肉の動きを見て、ようやく俺は、はっきりと目を覚ました。
……俺、こんな美少女二人と、風呂に入ってるんだな。
「じゃ、じゃあ、俺はこれで」
思考がまたそっちに流されそうだったので、俺は慌てて風呂から逃げ出した。
先輩が小さな声で、「バカ……」と呟いた気がしたが、気が付かないフリをした。
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