限界まで密着。これを二時間。本気のまりあの出来上がり。
「桜くん……」
「……はい」
「桜くん?」
「なんですか」
「んふふ。桜く~ん」
「もう……」
密着されてから、どれくらい時間が経っただろうか。
身体の自由を奪われているので、時計を見ることもできない。俺の顔は、まりあさんの胸に完全に埋まっており、呼吸をするのも一苦労だ。
少しでも動こうものなら、まりあさんの柔肌と擦れてしまう。そのたびに、小さく声を漏らすまりあさんは、明らかに確信犯だった。
「……撮影まで、ずっとこのままだからね。覚悟しようね」
「そんな……」
抱え込むような体制のまま、頭まで撫でられている。まるで、赤ちゃんと添い寝する母親のような状態……。これ、彼氏っていうより、もう息子扱いなんじゃないか?
「それって、あと何分くらいなんですか」
「気にしなくていいの。桜くんは、私に身を任せていればそれでいい」
「そういうわけには……」
「こうして、大好きな人と密着して、胸に顔を埋めてもらって……。このまま現場に行けば、最高の演技ができるって、確信してるから」
……そう言われると、大人しくこの状態のままでいるしかなくなる。
けど、ここへ来たのって、まだ夕方とも言えないくらいの時間だったような……。
撮影、夜だよな?
一体、どのくらいこのままでいなきゃいけないんだろう。
☆ ☆ ☆
気を紛らわせるためには、寝るしかない。そう思って、目を閉じた俺だったが、時間も時間な上に、緊張して、全く眠ることなんてできなかった。
それでも、多少時は過ぎたと思う。どのくらいかはわからないけど……。
「桜く~ん。好きって言って?」
「……なんですか。急に」
寝ようとした俺に気が付いたのか、まりあさんが変な要求をしてきた。
「私も好きって言うから」
「こんなに密着した状態で、好きって言い合うんですか?」
「うん。言い合う」
「嫌ですよ……。恥ずかしすぎますって」
「彼氏なのに、彼女に好きって言えないの?」
「例え恋人同士でも、恥じらいは持つべきだと俺は思いますよ」
「……水着の私に、それを言うんだ」
すごい皮肉みたいになってしまったが、そんなつもりはなかった。
改めて状況を振り返ろう。ここはネットカフェのペアルーム。俺は壁際に追い込まれ、水着姿のまりあさんと添い寝するような形で、まりあさんの胸に顔を埋めさせられており、頭は常に撫でられている。
……うん。どう考えてもおかしいな。これは。
「じゃあ、好きっていってくれるなら、顔をここから解放してあげる」
「本当ですか?」
「うん」
正直、まりあさんの豊かな胸は、柔らかいけど、顔を埋めていると、どうしても苦しかったのだ。
もしそれから逃れられるなら……。この条件を飲む価値はあるだろう。
「わかりました。じゃあ、そうします」
「私に、好きって言ってくれるの?」
「……はい」
「よ~し。じゃあ、はい」
まりあさんが、密着を少し緩めてくれた。俺が胸から顔を出したのを確認して、再び距離を詰めてくる。
……そのせいで、俺とまりあさんは、鼻と鼻の先がぶつかりそうなほどの距離感になってしまった。
緊張感は、こっちの方が何倍も上だ。
この状況で、好きって言い合うのか……?
「こ、これはちょっと、恥ずかしくないですか」
「でも、桜くんが選んだんだよ?」
「そうですけど……」
「じゃあ、私の胸に、また埋めちゃうよ?」
「勘弁してください」
「ふふ。じゃあ、好きって言い合おう?」
「……わかりました」
「じゃあ、私からね?……好き」
まりあさんが、少し視線を落としながら、呟くように言った。
小さな声でも、破壊力はすさまじい。
「次は、桜くんだよ」
「……好き、です」
「好きだって言ってよ」
「なんでですか……」
「彼氏彼女なんだよ?敬語じゃ嫌。好きだって言って」
「……好きだ」
「私も好き」
「……」
……なんだこれは!
めちゃくちゃ恥ずかしいし、涙が出そうになる。
「徳重まりあが好きだって、言って」
「徳重まりあが、好きだ」
「どんなところが好き?」
「え?」
「答えられないのに、好きって言ったの?」
まりあさんが、頬を膨らませる。こんな至近距離で、その可愛い顔はマズい……。本当に、恋に落ちてしまいそうになる。
「……その、声とか」
「声?」
「まりあさんの声、透き通ってて……」
「……嬉しい。本当に私に興味がある人の褒め方だ」
「そりゃあ……。一応、同棲してますからね」
「他には?」
「あの、趣旨変わってません?」
「うん。変えたよ?徳重まりあの好きなところを、全部教えてもらうことにしたの。彼氏の桜くんに」
そう言ってほほ笑むまりあさんが、眩しすぎて直視できなかった。
しかし、目を背けようとすると、すぐに目元を弄られて、元の位置に戻せと、物理的な指示を受けてしまう。
そのせいで、まりあさんから目を離すことができない。
「ほらほら。他に好きなところは?」
「えっと……。匂いが好きです」
「……エッチだね」
「違いますよ!そういう意味じゃなくて」
「どんな匂いなの?」
「どんなって言われると、説明し辛いんですけど……。安心するというか、今もこうして密着していて、包み込まれるような感覚になるというか……」
「じゃあ、その匂い、もっと感じさせてあげようか」
「え?」
まりあさんが、手を伸ばして……。脱いだ服を手に取った。
……ま、まさか。
「まりあさん?何をするつもりですか」
「……」
無言のまりささんが……。俺の顔に、脱いだ服を押し付けてきた。
「ちょっと!まりあさん!」
「安心する匂いなんだよね?」
「ダメですって!こんなの!」
さっきまでまりあさんが着ていた服だ。こうして密着していても、普通にかなり匂いは感じるのに、こんなことまでされたら……。匂いに溺れてしまう。
「まりあさん……。これはマズいですって。この服、まだ着ますよね?」
「そうだよ?この服で、撮影現場に行くの」
「えぇ!?」
「……私、変態なのかな」
「……正直、ちょっと足を踏み入れてると思いますよ」
「でもね?このくらいじゃなきゃダメなの。ちょっと夢を見ているような、というか……。まともな状態じゃ、良い演技なんてできないから」
「だからって、こんなことまでしなくても……」
「……桜くん。私はね?自分に何もない女の子だなって思ってる」
「まりあさん……」
ようやく服が取り払われ、目の前に現れたまりあさんは……。悲しげな表情をしていた。
「そんなことないじゃないですか。料理だって、メイクだって上手だし」
「あのくらいはね?ちょっとやれば、誰でもできちゃうの」
「自分を過小評価しすぎですよ」
「……桜くんがいなかったら、オーディションなんて、一個も受かってないんだから」
「言い過ぎですって……」
「……ねぇ。桜くん」
「はい?」
「あと、撮影まで二時間なの」
まだ二時間もあるのか……。いい加減、心臓の調子がおかしくなりそうだ。
「今私、すごく興奮してる。この状態で演技できたら、きっと誰にも負けない。桜くんのこと、たくさん考えながら……。誰が見ても恥ずかしくないような、最高の演技ができると思うな」
「それは良かったです」
「でも、大事なのは、これをキープすること」
「……えっと」
「あと二時間、この最高の興奮を維持するためには、何をしたらいいと思う?」
「密着してるだけじゃ、ダメなんですか?」
まりあさんが、首を縦に振った。
「もっと、密着したい」
「でも、これ以上密着する方法なんて……」
「……桜くん。ここって、アメニティも販売してるよね?」
「あぁそういえば」
最近のネカフェは、ホテル代わりに使われることも多いので、簡単なアメニティくらいなら、揃っていたはずだ。
でも、なんでそれを聞くんだろう。
「……じゃあ、最後のお願い」
「はい……」
「……桜くんの服の中に、入りたい」
「……はい?」
「きっと、服は伸びちゃうと思う。でも、アメニティを買えば」
「だ、ダメですよそんなの。だって、そうしたら、まりあさんは……。俺の裸に触れるってことじゃないですか」
「でも、上半身だけだよ?何もいかがわしくない」
「そうですかね……」
「お願い!それしかないの。二時間、桜くんの服の中にいさせて?」
……とんでもない欲求だ。
こんなことを受け入れてしまったら、どうなってしまうのか。
けど、まりあさんの必死な顔を見ていたら、断ることなんてできなくて……。
「……わかりました。でも、本当に密着するだけですからね?他のことは何もしないでくださいよ?」
「わかってるよ。そんなことしたら、捕まっちゃうから」
多分、警察はまりあさんの味方をするだろうけどな……。
「じゃあ、いいかな」
「……はい」
まりあさんが、俺のTシャツを捲り上げた。
そして……。徐々に、侵入してくる。
きつい、苦しい。そんな感情をもみ消すかのように、まりあさんの髪の毛の感触が、次から次へと襲ってきた。
……そして。もう着れないだろうな。というくらい服が伸び切ったところで、まりあさんの顔が、ひょっこりと姿を現した。
「……近いね」
「……」
返事ができないくらいに、緊張している。
「あっ。桜くん、鼓動が早くなった」
俺の胸が、直にまりあさんに触れているのだ。全部バレてしまう。
「……桜くん」
「……はい」
「私、頑張るからね」
「是非、頑張ってください。応援してます」
「……もっかい言って」
「……応援してます」
「もっかい」
「応援してます」
「……ありがとう。大好き」
そう言って、まりあさんが、俺の首元に、顔を埋めてきた。
……この状態で、二時間?
怖くなった俺は、思考を放棄した。そして、羊を数え始める。
「……好き」
それなのに、まりあさんが、小刻みに、好きと言ってくるせいで、なかなか気が紛れない。
目を閉じて、耐え忍ぶ。
……康太役の人は、このまりあさんの本気を、最初から受けることになるのか。
それこそ、トラウマにならないか、心配になってしまった。
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