トラウマになるほどのキス。
「……まりあさん」
「ん~?」
「あの……」
「どうしたの?顔赤いけど、熱でもあるのかな」
「あ、もう……」
当たり前のように、俺のおでこに手を当ててくるまりあさん。今日は多分、この程度の攻撃は、息をするように飛んでくるんだろうな……。
って、照れてる場合か。この状況に対してツッコまないと。
「あの、ここって、下着売り場ですよね……。俺、入っていいんですか?」
「当たり前じゃん。だって、彼氏だもん」
「そう、ですけど……」
「あぁ~。ここで照れちゃうってことは、全然彼氏になれてない」
まりあさんが頬が頬を膨らませる。マスクとサングラスをしていても、その可愛さは隠しきれてなかった。
「別に、下着っていやらしいものじゃないんだよ?」
「まぁ、確かに。それ自体は……」
「ん?どういう意味?下着を履いてる私を想像したの?」
「してませんって!」
「あははっ。今日の桜くんは可愛いね~」
そんな風に言いながら、頭を撫でてくる。店員さんがこちらを見ていないか、とても気になった。
「桜くん。どこ見てるの?私を見てよ」
「……まりあさん。次から次へと、セリフが強すぎますって」
「だって、彼女だから」
「そればっかり……」
「さて、そろそろ桜くんに、下着を選んでもらわないとね」
「えっ?」
声が裏返った。
俺が、まりあさんの下着を?
「何かの冗談ですよね?」
「桜くんの選んでくれた下着をつけて、撮影に挑みます」
「……ちょっと、どうかと思いますけどね」
「だって、演技する最中もずっと、桜くんのこと思い出すんだから」
「それって、むしろ演技の妨げになるんじゃ」
「ううん。だって、いつもそうしてるし」
「……いつも?」
「あれ。言わなかった?私、康太を見てる時も、ずっと桜くんだと思って演技してるよ?」
とんでもないことを、あっさりと言われて、驚く時間もなかった。
ただ、頭はだいぶ衝撃を受けたみたいで、クラっとしてしまう。
「あの、それ本当に言ってるんですか?」
「桜くんの写真を見て、オーディションに受かったんだもん。そうでなきゃおかしいでしょ?」
「そう言い切られると困るんですけど」
「だから、下着を選んで?」
「理由になってない気がします」
「もうっ。いいから選んでっ」
「っ」
いつものまりあさんと違う、ちょっと子供っぽい態度。ギャップがすごくて、とんでもなく可愛い。
「……わかりましたから。早くここを出たいです」
「うん。じゃあ選ぼうね」
まりあさんの後について、店の奥へと向かう。
よく見ると、俺たちの他に、意外とカップルが何組かいた。メジャーなのかな。この買い方……。
「あっ。これいいかも」
まりあさんが指差したのは……。結構大胆なパンティだった。
少なくとも、これ一枚では、家ですら過ごせない。そんなデザインである。
「色がちょっと違うんだよね~。どれがいい?」
「えっ……」
「早く帰りたいんでしょ?」
「じゃあ」
「はいストップ。適当はダメだよ?」
「……」
「あ~。否定しないってことは、やっぱり適当なんだ」
「違いますって。俺は本当に……」
「紫が良いって思ったんだ」
「言葉にされると、恥ずかしいんですけど……」
「でも奇遇だね。私も紫が良いなって思ってたの」
まりあさんは、紫のパンティを手に取って、足早にレジへ向かった。
「えっ。本当にそれにするんですか?」
「うん。する」
「もっと色々考えた方がいいんじゃ……。今日。履いていくんですよね?」
「何も考えることなんてないよ?桜くんが選んでくれた。それだけで十分」
「……」
別に、わざと何かを意識して言ったセリフじゃない。
自然と出てきたのだと思う。それなのに、破壊力がすさまじくて……。
……俺は、月9女優のパンティを選んだ。そんな大それたことをしたように思えなかった。
「桜くん」
「はい?」
店を出た後、再び手を繋いだ俺たち。少し歩いたところで、まりあさんが足を止めた。
「どうしました?」
「ブラは買わないんですか?って、ツッコまないの?」
「……あぁいや。えっと」
「ブラも選ばせてくださいって、言わないんだ」
「そんなこと言うわけないじゃないですか」
「言ってくれたら、選ばせてあげたのに」
「……まりあさん。やっぱりおかしいですよ。彼氏とか彼女とか、それ以前に、なんか、下品というか」
「だって、こういうことしたいなって思いながら、君を想ってきたんだから」
「……」
「考えてみて。普通の女の子が、あんな風に写真を何枚も集めたりすると思う?」
……しない、だろうな。
オーディションのためと言えど、別に一枚で良いような気がする。もし、俺の笑顔がきっかけなのだとしたら、成長した姿は必要ないわけで。
「私が演技のことを……。空君のことを考えた時間は、そのまま全部、君のことを考えた時間なの」
「まりあさん……」
「今、こうして手を繋いでてもね?私は色々なこと考えてる。いきなり桜くんが、この手を引っ張って、抱き寄せてくれたら……。なんて」
「そんなイケメン王子みたいなこと、しませんって」
「……そういうのしてくれたら、最高の演技ができるのに」
まりあさんが視線を落とした。
……今のは、冗談じゃなかったのか。
「……それはつまり。逆に言えば、そういうことをしていかないと、今晩最高の演技ができないと?」
「賢いね」
空君が最高のドラマになるチャンスを、俺が潰す。
そんなことは、あってはならないと思う。
だったら……。多少なりとも、無理をする必要があるのだろう。
「手を、引けばいいんですか?」
「え?」
「その、ま、まりあさんが、思い描いてるシチュエーション」
「うん。そうだよ」
「手を引いて……。それから、抱き寄せるっていうのは?」
「手を引くでしょ?そしたら、私がそっちへバランスを崩して寄りかかろうとする。その時、手を離して、両手で私を抱きしめるの……」
「……やってみます」
「本当に?」
「……空君のため、ですからね」
「私のためじゃなくて?」
「空君のためになることは、まりあさんのためになることでもあると思います」
「……ズルい逃げ方」
まりあさんが、唇を尖らせた。
……さて。
工程を再確認しよう。手を引く。話す。抱きしめる……。
「じゃあ、やりますからね」
「……どうぞ」
俺は、まりあさんの手を引いた。ここから離して……。抱きしめて……。
そう思っていたのに、まりあさんは、抱きしめようとする俺の手を払いのけた。
そして、その勢いのまま、マスクを外して、両手で俺の頬を掴み……。
――唇を、重ね合わせてきた。
突然の柔らかさに、頭の回線がショートする。気が付くと、もうまりあさんは離れていて……。
「……しちゃった」
頬を真っ赤にして、俺を見つめていた。
「……まりあさん。なんで」
「もう、我慢できないよ。本気の彼氏、やってくれる気になったのなら、良いよね?」
「それとこれとは、話しが別で」
「康太とキスするとき、桜くんが思い浮かぶ。これがどれだけ重要なことかわかる?」
「……」
「監督さんがね?言うの。キスシーンでは、相手の俳優のトラウマになるようなキスをしてやれって」
「……それが、これですか?」
「ごめん。そんな困ったような顔するなんて、思わなくて」
「いや、その。嫌だったとかじゃないです。でも、ムードも何もなく、いきなりだったので……」
「私にとっては、桜くんとデートしてるってだけで、いつでもそういう気持ちなんだけどなぁ……」
徳重まりあが、こんな人だなんて、知らなかった。
……女の人が、こんなにも積極的だとも。
メイや、美々子さんも、そうなのだろうか。
なんだか、女性三人と同棲しているという事実が、今更ながら恐れ多いというか……。
「どうしたの?ボーっとしちゃって」
まりあさんが、俺の唇を優しく突いてくる。
「その……。俺的には、もう限界というか、色々恥ずかしくて、やばいんですけど……」
「え?でも、今日は本気の彼氏、してくれるんだよね?」
「……はい」
「完成度的には、四十パーセントくらいかな。まだ、由利は……。スイッチ全開の徳重まりあは完成してないので、もう少しお付き合い、よろしくお願いします」
「マジですか……」
腕を組まれながら、俺は自分の心臓の鼓動を確かめた。
まるで、百メートル走を走った後のように、ドクドクと振動している。
……無事で帰れるのかな。俺。
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