徳重まりあの本気~開幕~

憂鬱な気持ちで、なかなかベッドから出ることができなかった。


どんな顔をして、まりあさんと話せばいいのだろうか。


……それに、昨日去り際に呟いていたセリフも気になる。


『二人は明日の夜まで帰ってこない。撮影までは時間あるし。うん。そうだそうだ』


何か企んでいるのだろうか。


俺はゆっくりと、ドアを開けた。


人の気配がしない。もしかすると出かけている可能性もある。


ちょっとだけ安心しながら、水を飲もうと、冷蔵庫を開けた。


「……ん?」


すると、一番見やすい場所に、何やらメモ書きの貼ってある箱が置いてあるのを見つけた。


その箱は……。昨日、俺の写真が入っていた箱だ。


箱を持つと、何も入っていないのか、軽くなっている。メモ書きには、こう書かれていた。


起きたら、電話ください。まりあ。


……なるほど。


俺は水を飲んだ後、部屋に戻り、まりあさんへ電話した。


「もしもし」

「野並桜くん」

「は、はい」


いきなりのかしこまったセリフに、思わず身構えてしまう。


「エントリーナンバー、一番。徳重まりあです」

「エントリーナンバー?」

「桜くんの彼氏に、立候補します」

「……なんですか、それ」

「引いてる?」

「いや、それよりもまりあさん、今どこに?」

「今、あなたの後ろにいるの」

「メリーさんですか……」

「なんちゃって。あのね?実は事務所に来てて……」


おそらく、康太役の俳優の件だろう。


「事実と違うことがあるかもしれないから、ちゃんと確認したの。でもね、やっぱりほとんど違わなかった。本人に訊いたから」

「えっ。本人に……?」

「うん。だって、空君は絶対、最高の作品にしないといけないから、気を使ってる余裕なんて無いの」


力強い口調だった。


「それで、一つ約束をしました」

「約束、ですか」

「うん。それはね……。今日の撮影、最高の由利を作り上げてくるから、あなたも最高の康太を作り上げてきてって」

「……すごいセリフですね」


ヒロインにそんなことを言われたら、燃え上がらない主人公はいないと思う。


「だから、桜くん。お願い」

「え?」

「……桜くんにも、本気の彼氏をしてほしいの」

「……具体的には」

「……えへへ。私にもわからないや」

「えぇ……」

「だけどね?待ち合わせ場所だけは決めてあるの」

「はい?」

「駅前に正午!じゃあね~」

「あ、ちょっと!」


切れてしまった……。


現在時刻、午前十一時半。


無茶なこと言うなぁ……。まりあさん。


☆ ☆ ☆


気合で準備を間に合わせ、駅前へ。


「あっ。桜く~ん」

「なっ、ちょっと、声デカいですよ」


駆け寄ってきたまりあさんに、俺は慌てる。ここはうちの周りじゃない。人もたくさんいる。徳重まりあがいるなんてバレたら……。


「大丈夫。桜くんのお父さんのおかげで、警備はバッチリ。メガネもマスクもしてるし、問題無し」

「そうなんですか……?」


そんなに簡単に、記者は退けられるのだろうか。現に、康太役の俳優は捕まっているわけで……。


「今思ってること当ててあげようか。彼がスキャンダルで捕まったばかりなのに、私がスキャンダルを起こしてどうするんだって」

「……はい」

「それがね?心配いらないの。かなりきつ~く注意してくれたみたいだから、なんならメガネもマスクもいらないくらい」

「周りの人にバレますから……」

「心配症だなぁ桜くんは。私はあえて、この状況を選んだの」

「どうしてそんなことを」

「吊り橋効果って知ってる?」

「あぁはい。知ってます」


吊り橋を渡るような、心臓がドキドキする緊迫した場面で、すぐそばにいる人に恋をしていると勘違いしてしまう現象だ。


「とってもドキドキするでしょ?本当に記者は来ないのか。本当にそんな変装で大丈夫なのか……」

「そりゃあ、そうですよ……」

「君のお父さんを信じてよ。女の子は絶対に守るって考えてる人なんだから」

「……」


いまいち信用できないけど、こうなったら仕方ないだろう。


「で、俺は……」

「本気で、彼氏をしてほしい。昨日まではシチュエーションだったけど、由利じゃなくて、徳重まりあを見てほしいの。今日だけね?」

「本当に、今日だけですか?」

「当たり前じゃん。空君、命かけてるんだから」

「……わかりました。頑張ります」

「よーし。じゃあ早速、行こうか!」


まりあさんが、手を握ってきた。


すぐに周りを確認する。こっちを見ている人はいないか。スマホを向けている人はいないか……。


「警戒してるね。そんなにドキドキしてると……。えいっ」

「!?」


まりあさんが、いきなり正面から抱き着いてきた。


圧倒的な柔らかさと、包容力。年上のお姉さんのぬくもりが、心まで包み込むように、優しく襲いかかってきた。


これをされると、思考を放棄しそうになる。美人に抱き着かれてるんだ。何も考えずに、身を任せてしまえ……。悪魔のささやきに流されぬように、俺はなんとか意識を逸らした。


「ちょっと。こんな目立つところで……」

「どう?もっとドキドキする?」

「しますって。当たり前じゃないですか……」

「私も、興奮してる。バレちゃったらさ、全部台無しになっちゃうよね」

「……命かけてるんじゃなかったんですか?」

「だからだよ。全部かけて、ギリギリの橋を渡って、今夜最高の演技をする。それだけ」


あまりにかっこよくて、危険なセリフ。


もし失敗したら、空君はおしまいだ。


……俺なんかが、そのリスクを背負う資格のある人間だなんて、やっぱり理解できない。


「じゃあ、行こうね」


ハグから解放されたが、手は握られている。


この手に感じる汗は、自分のものなのか。それともまりあさんのものなのか。


それすらもわからなかった。

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