……フラれたんだ、私。

「徳重まりあが女優を目指したきっかけは、お前だ」


親父はそれだけ言って、電話を強引に切ってきた。


かけ直しても繋がらない。着信拒否されている。


……まりあさんが女優になったきっかけが、俺?


「桜くん?」

「うひゃあ!」


お風呂に入っていると思っていたまりあさんが、ドアを開けてすぐの位置にいたので、俺は思わず情けない悲鳴をあげてしまった。


「脅かさないでくださいよ……」

「なはは~。ごめんごめん」


愉快におどけた後、まりあさんが……。ため息をついた。


「桜くん。聞いた?」

「な、なにがです?」

「顔に、聞きましたって書いてあるよ」

「……すいません」


ネットニュースになるくらいだ。仕事仲間のまりあさんが知らないわけがない。


「噂は聞いてたの。でも彼は、撮影が終わるまでは、現場に迷惑をかけたくないって言ってたんだ……。どこから見つけてくるんだろうね。記者の人は」


『やつらはあることないこと書いて、人の人生を踏みにじることしか考えてない。ろくな死に方しねぇだろうよ』


親父の言葉を思い出す。確かにその通りだと思った。


一体この国の何人の人が空君を楽しみにしているのか、記者は考えたことがあっただろうか。きっと人の心が無い、残虐な人物なんだろう。


「それでね?全部忘れたいなぁ~って。お酒、買っちゃった。飲めないくせに」

「そんな飲み方はやめてください」

「……ごめんなさい」


まりあさんが頭を下げてきたので、俺は慌ててしまう。


「いや、あの。そんな怒ってるとかじゃなくて……」

「わかってる。本当に飲もうなんて思ってもないよ。でも、冗談でも、一瞬私は……」

「気にしなくていいですから。今日はシチュエーションもやめましょう。撮影に向けて休んでください」


康太のやる気を起こすような、完璧な演技をしないといけない。ここで夜更かしなんてしてる場合じゃないだろう。


「それはちょっと違う」

「え?」


まりあさんが……。俺の手を握ってきた。


「明日、最高の演技をするためには、今日……。しっかり練習しなきゃ」

「でも俺は、康太じゃなくて……」

「そうだよ。君は野並桜」

「だったら、シチュエーションをする必要もないんじゃ?」

「……あるよ。私があるって言ったら、あるの」

「ちょっと、まりあさん?」


応える代わりに、まりあさんが俺の手を引っ張る。そして、俺の部屋ではなくて、まりあさんの部屋へとそのまま向かって行った。


まりあさんらしい、飾らない、綺麗な部屋。


物があまり多くなくて、きちんと片づけられている。


唯一大きな家具と言えば、ベットくらいのものだ。


そして、俺はそのベッドに、まりあさんと一緒に座った。


……というか、座らされた。


まりあさんの大きな瞳が、俺を捉えている。


その頬は赤くなっていて、なんだか少し艶っぽい。


「今から、重大発表をします」

「……重大発表?」

「うん。かなりね」

「それは……。もしかして、俺の話ですか?」

「……やっぱり、お父さんから聞いたの?」

「はい……」

「そうだと思ったんだ。お父さんには、言わないでって言ってたの。私から言いますからって。でも、さすがにこんな状況になったら……。仕方ないよね」


徳重まりあが女優を志したきっかけ。


それが、俺という話だ。


「私ね?引っ込み思案な子だったの。友達もあまりいなかったし、お話も上手じゃない。唯一編み物だけは得意で、どちらかと言えば一人でいるほうが気楽なタイプだった」


俺は黙って頷いた。


「そんな私が、おばあちゃんが勝手に応募した子役のオーディションに出ることになって……。そこの会場にいたのが、桜くんなの」

「え、俺?」


意外な形で登場して、驚いている。もちろん俺は全く覚えていない。


「桜くんのお父さんが審査員にいてね?まだ三歳くらいだった桜くんを指差して、こう言ったの。この子を笑わせられたら、合格だって」

「なんだその奇抜な選考方法は……」

「手段は何でもあり。だから私は、特技で披露しようとしていた、あやとりを見せたの。そしたら……。桜くん、笑ってくれて。私なんかが、自分の好きなことで人を笑わせられるんだなぁって」


まりあさんが、嬉しそうに、繋いでいる手を揺らした。


「それが、女優を目指したきっかけだった。……ここまでは、良い話だよね」

「そうですね。ほほえましいというか……。でも、親父の言ってることは大げさだと思います。俺がいなくたって、きっとまりあさんは」

「違うの」


食い気味に否定された。


「それだけじゃ、ないの」

「そうなんですか」

「そこから女優を目指した私だけど、結局性格は変わらないままだったから、オーディションなんて受からなくて……」

「……なるほど」

「でも、そのたびに、桜くんのことを思い出してた。あの時みたいにできたら、きっと受かるはずだって。だから私は、桜くんのお父さんにお願いして……。桜くんの写真をもらったの」

「写真?」

「うん。お守り代わりに」

「なんか、照れますね」

「……」


まりあさんが、首を横に振っている。


今にも泣き出しそうな表情に、俺は困惑した。


「どうしてそんな、辛そうな顔してるんですか?」

「これを見て」


そう言うと、まりあさんは、ベッドの下の引き出しを開け、クッキーの缶を取り出した。


そして、俺の膝の上に置く。


「開けて」

「……はい」


一体、何が入っているというのだろうか。


おそるおそる。俺は缶を開ける。そこには……。


――俺の写真が、パンパンに詰まっていた。


「……えっ」

「気持ち悪いよね。ごめん」

「その、なんで」

「オーディションの度に、写真をもらったの。桜くんが成長するのに合わせて、何枚も……。これが、一番最近の写真」


校門の前で、嫌々ピースをしている俺だった。高校の入学式で、親父が撮った写真だろう。


「空君には、それで受かったの」

「……マジですか」

「こんなところ、見せたくなかったの。でも……。私がこれを明らかにした理由、わかる?」

「すいません。全く……」

「……桜くんって、結構鈍感だよね」


まりあさんが、頬を膨らませる。美人お姉さんのプク顔ほど、強いものはない。


「ピンチを乗り越えるためには、桜くんの力が必要ってこと」

「……えっと」

「まだわからない?」


呆れた様子のまりあさん。だんだんもうしわけなくなってくる。


「親父も似たようなことを言ってたんですけど、俺にできることなんて、せいぜい今やってるシチュエーションの確認くらいで……」

「そうだよ。今日もこれをする」

「え?でも」

「……いいから」

「っ!?」


俺は……。急にベッドに押し倒されてしまった。


突然の出来事に、心臓がドカンと跳ねる。すぐ目の前に、まりあさんの顔があった。


「私の彼氏になってよ。野並桜くん」

「……まりあさん」

「そしたら、乗り切れるから」

「でも……」

「康太と手を繋ぐ時。ハグする時。……キスする時。いつでも桜くんのことを思い浮かべてた。君は私の思った通りの男の子だったの」

「……その彼氏っていうのは、いつまでですか」

「いつまでも」

「……だったら、俺には荷が重いです」

「……なんで?」


泣きそうな表情のまりあさんに向けて、俺は言葉を続ける。


「まりあさんのこと、もちろん好きですよ。でも、俺はまだ全然、徳重まりあを知らない。そして、徳重まりあは、ここから女優として、どんどん成長していく段階にあると思うんです。それを止めたくない。俺はそんな風に思ってます」

「……今私、フラれてる?」

「……」

「……どうしよう。泣けばいい?」

「泣かないでください」

「じゃあ、彼氏になって?」

「それは……」

「空君、成功してほしくない?」

「仮に……。俺と付き合えてしまったら、空君は平凡な作品で終わると思います」

「すごい自信だね」

「い、いや。そういうわけでは……」

「そっか。フラれたんだ。私」


まりあさんが、俺の上からゆっくりと退いてくれた。


それでも俺は、体の力が抜けたように、なぜか起き上がれなかった。


「いいよ。今日からは本気だから」

「……え?」

「二人は明日の夜まで帰ってこない。撮影までは時間あるし。うん。そうだそうだ」

「まりあさん?」

「悪いけど、出て行ってもらってもいいかな」

「あっ。はい……」


ゆるゆるに緩んでしまった体に何とか鞭を打って、俺はベッドから立ち上がった。


そして、まりあさんに睨まれながら、部屋を出る。


ドアを閉めた瞬間、急に胃が痛くなってきた。


……月9女優をフッたのか。俺。


馬鹿だな。付き合ってりゃいいのに。


でも、それ以上に……。怖かった。


自分のせいで、徳重まりあの人生に影響が出るのを嫌った。


結局は、逃げただけだなぁ。


「……はぁ」


軽く息を吐いて、体の毒素を排出しようとした。


……当然、気持ちは全く晴れなかった。

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