私も下の名前で呼んでほしい……。

「先輩が?」

「はい」

「……彼女じゃないよね?」

「大丈夫です。先輩、俺のことを男だと思ってないですから」

「本当かなぁ」


帰宅すると、まりあさんがいたので、事情を説明した。


どうやら、俺と神沢先輩の関係を疑っているらしい。


「だって、神沢先輩、俺がいるのに、目の前で着替えたりするんですよ?」

「え?」

「さすがにそれはマズいと思ったんで、注意したんですけど、野並になら見られてもいいとか言い出して……。どう思います?」

「……もしかしてだけど、桜くんって、鈍感なの?」

「……鈍感?」

「ううん。何でもない。お客さんが来るなら、お茶の用意をしないとね」

「ありがとうございます……」


ちょっとよくわからなかったけど、まりあさんが台所に行ってしまったので、この話はおしまいだ。


それから二十分くらいして、神沢先輩は現れた。


「お待たせ」

「どうぞ入って下さい」

「……女の香り」

「いきなり生々しいこと言わないでくださいよ……」

「こんなことになるなら、もっと早く来るべきだった」


ぶつくさ言いながらも、神沢先輩が我が家に入った。


「誰かいる?」

「あ、はい。まり、徳重さんが……。いますね」

「ふぅん」


危ない危ない。神沢先輩の前で、下の名前で呼んでいることがバレたら、きっと面倒だ。


「あらぁ。こんにちは。可愛い女の子だね」

「……どうも」


神沢先輩が控えめにお辞儀すると、まりあさんはにっこりとほほ笑んだ。


「すごい。本当に徳重まりあがいる」

「そ、そんな……。すごくなんてないよ」

「空君は構成が素晴らしい。ただの恋愛小説の域を超えてる」

「ありがとう」


ちなみに、まりあさんには、神沢先輩がプロの小説家であることは話していない。


文芸部の部長で、小説を読んで感想をもらっているということになっている。


まぁ多分、何度もテレビに出ている神沢先輩だから、まりあさんに気が付かれるのも、時間の問題だと思うけどな……。ペンネームこそ違えど、顔はそのまんまだから。


「……さて。茶番は終わり」

「え?」


神沢先輩の表情が、急に険しくなった。


「野並とは、どこまでやったの」

「ちょ、神沢先輩!?」

「あらあら。心配なの?」

「……余裕そうな態度。むかつく。大人のつもり?」

「待って神沢先輩!何突っかかってるんですか!」

「野並は黙ってて。今日私は……。この家に住みついたサキュバス三匹を、討伐しに来たんだから」

「さ、サキュバス?」


さすがに、普段からおっとりしているまりあさんでも、これには困惑したらしい。


「誤解しているみたいだけど、私たちはそんな理由で同棲してないの」

「じゃあ、どんな理由?」


そういえば、俺もこの同棲が始まった理由を聞いてないな。


しかし、まりあさんは困ったように。首をかしげるばかり。


「ごめん。ちょっと言えないかなぁ」

「やましいことなんだ」

「違うよ?でも……。うん。この家に関係ない人には、言えないかな」

「関係ない人……?」


二人の間に、バチバチと火花が散っている。


まずいな……。なんかめちゃくちゃ空気が悪い。


とりあえず、二人の間に割って入ることにした。


「二人とも落ち着いて。ほら神沢先輩。お茶でも飲んで、頭冷やしましょう?」

「……うん」


お茶を手渡すと、神沢先輩は、静かに一口だけ飲んで、息を吐いた。


「ごめんね?ちょっと、言い方がきつかったかも」

「こちらこそ。突っかかって、すいません」


……やっぱり、喧嘩って、片方が大人だとすぐ収まるもんだな。


「まりあさん。神沢先輩は、本当は優しい人なので……」

「わかってるよ?だって、後輩をこんなに思ってるんだもん。良い子だなぁって」

「……まりあ?」

「……あ」


一度収まったはずの怒りが、俺の方に向いてしまった。


「野並、徳重まりあのことを、下の名前で?」

「……はい」

「確かに、徳重まりあも、野並のことを、桜って呼んでた」

「えへへ……」


まりあさんが、頭をかいて照れている。いや照れてる場合じゃないんですけど!?修羅場なんですけど!?


「い、いや。これはですね。同棲するにあたって必要なことでして」

「別にいいけど」

「あれ、意外とすんなり……」

「その代わり、私のことも、碧って呼んで」

「……えっ」

「できないなら、もう小説読まないから」

「それは困りますよ!」


仕方ない。こうなったら、呼ぶしかないだろう。


……まりあさんが、ニヤニヤしながらこっちを見ているのが、少し気に食わないけども。


「わかりました。……碧先輩。これでいいです?」

「いいよ」

「……はぁ」

「二人とも、仲良しさんだね?」

「からかわないでくださいよ……」

「ううん。本当に羨ましいの。私も……。私も桜くんと同い年だったらよかったのになぁって、思っちゃった」

「まりあさん……」

「……野並、何ニヤニヤしてるの」

「し、してませんよ」


嘘だ。めちゃくちゃしてた。


まりあさんが同級生……。また違った良さがありそうだな。


「あ。いっけない。私ったらお買い物に行くのを忘れてた」

「じゃあ、俺行ってきますよ」

「ダメダメ。せっかくお客さんが来てるのに。それと、もうじきメイちゃんが帰って来るの。あの子、鍵を持って行かなかったみたいで……」

「なるほど。じゃあすいません。お願いします」

「うん。じゃあ、二人とも仲良くね?」


まりあさんが、買い物に出かけて行った。


さて。二人きりになったし、小説の指導でも……。


「野並」

「はい?」

「ちょっと、こっち来て」

「そっちって……」


碧先輩が指差したのは。ソファーの上だった。


「あの、俺、ノートパソコンを持ってこようかと」

「必要ない」

「えっ。小説、見てくれるんじゃなかったんですか?」

「いいから。そこに座って」

「……はい」


碧先輩は、何を考えているんだろう。


とりあえず、指示通り、ソファーに座った。


そして、碧先輩が隣に座る。


……やたらと距離が近い。肩が触れている。


「せ、先輩?」

「シチュエーション1。初めてのお泊り」

「え?」

「……よ~い。アクション」

「ちょっと、先輩?」

「……桜。緊張するね」


……これは、一体何が始まったんだ?

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