第2話 兵藤

 昼飯のあとの五限は実にしんどい。いい具合の満腹感といい、窓から注ぎ込む春の爽やかな日差しといい、眠気を誘う。

 大学というよりは、高校を思わせるこぢんまりとした教室。少人数の講義で使われる、四十人がはいるかどうかの部屋で、横長の机が三列並んでいる。その一番後ろの窓際に陣取り、あくびなんかしていると、


「戸井田さん、おつかれっす!」


 眠気をふっとばすような活気に満ちた声が辺りに響いた。はっとして振り返ると、


兵藤ひょうどう

「席、ここ、いいっすか〜」


 いい、と言う前に、すぐ隣に座った図々しい男。工学部の後輩、一年の兵藤だ。俺が所属しているゲーム制作サークルに入ってきた、人懐っこいというか、馴れ馴れしいというか、鬱陶しいというか、可愛がっていいものやら迷う、どうもつかめない十九歳だ。

 周りがぎょっとするような突拍子もないことを口にしたり、いきなり一人で笑い出したり。そんな奇行が目立つ奴なのだが、それすら霞ませてしまうほどの際立った容姿の、いわゆる美少年だった。俺がしたら「キモい」と言われて避けられそうなことも、兵藤がすると「かわいい」で済まされる不思議な現象を、サークル絡みの飲み会で常に見てきた。

 いろいろと重ね着してそうな服装に、俺だったら寝癖だと思われるだろう、毛先があっちこっち飛び跳ねた長めの茶髪。くっきり二重に、すっと通った鼻筋。両端がくいっと上がった、いわゆるアヒル口がまた憎い。すらっと背が高くスマートな体つきは、背丈は同じくらいでも、重ね着代わりに筋肉ばっかり張り付けてるような堀のそれとは大違いだ。

 椅子に座っているだけで、ファッション雑誌の一ページかのごとく絵になるこの男。しかし――サークルの女性陣に『観賞用』と揶揄される彼は、『口は災いの元』を体現しているような奴だった。


「この講義、何回目でしたっけ?」


 さっそくか。

 悪びれた様子もなく、爽やかスマイルで、俺のなけなしのプライドを砕き散るようなことをさらりと訊いてくる。


「三回目だよ」睨みつけて答えると、

「じゃあ、もうペラペラっすか!」

「なんでだよ。ドイツ語なめんなよ、お前」


 兵藤と話していると、イライラが蓄積していくのをはらわたに感じる。話しぶりとか、表情とかで、兵藤に悪意がないのは、一応、伝わってくるのだが……。

 大学三年というと、専門の授業に専念しているもんだ。教養科目は、二年までに片付けてしまうもの。俺みたいに、三年にもなって第二外国語の授業を受けている奴はなかなかいない。さぼってきたツケがまわってきたか、よっぽど言語科目ができないか、だ。


「国語も外国語も苦手だよ。センター試験の英語なんて、俺だけ百点満点かと思った」

「戸井田さんらしいですね」


 らしい、てなんだよ、らしい、て。まだ知り合って一ヶ月も経ってないだろ。


「いいじゃないっすか。戸井田さん、プログラミングの言語なら、ペラペラなんスから」

「は」と鼻で笑っていた。「なんだよ。たまには、うまいこと言うな」

「いやいや、冗談っすよ」

「なんで、そこで冗談にするんだよ」


 清々しく微笑みながら、人の神経を逆撫でてくる。もはや、才能だ。『お前はイケメンでよかったな』とうんざりした顔でサークルの先輩に言われていたのを思い出した。


「そういや、この前、聞いたんですけど、戸井田さんって高校んときから、自分でゲーム作ってたんですよね? すごいっすよね」

「しょぼいレーシングゲームな。大したもんじゃないよ」

「俺、正直、プログラミングって苦手なんですよ。興味はあるんで、片思いみたいな気分スわ。がんばっても、いつもうまくいかない。で、何がいけないのかも分からなくて、そこで詰まる――そんな感じで」


 へえ、と意外な一面を見た気分だった。頬杖をつき、珍しく、物憂げにため息をつく兵藤の横顔をまじまじと見つめ、初めて、親近感というものを覚えた。


「俺は……逆だわ」気づけば、そんなことを口にしていた。「プログラミングなんて、ぱっと見れば分かる。なにがいけなかったのか。どこで間違ったのか。失敗したら、見直して書き換えればいい。単純だよ」


 だから、俺は好きなのかもしれない。そう、ふと思った。

 書き換えられたらいいのに、とずっと思ってきた。あの日のこと。あの日の、リサとの会話。プログラミングと同じ、言葉の羅列でしかないはずだ。どこかの言葉が間違っていた。だから、うまくいかなかった。そして、リサを失った。

 でも、問題は――どこを、なんて書き換えたらいいのか分からない。だから、何も進まない。前に進めない。詰まる。

 いつのまにか、うつむいていた。

 兵藤の視線を横顔に感じていても、振り向く気にはなれなかった。

 何を考えているのか。珍しく黙り込む兵藤に、怖いもの見たさのような期待を抱いて返しを待っていると――、


「戸井田さん、合コン行きません?」


 えげつないほど、無視された。


「なんで、いきなり合コンなんだよ!」

「言いづらいんすけど……リサさんのことまだ引きずってて、未練たらしくてウザいからどうにかしてくれ、て頼まれて」

「誰だ。誰だ、そんなこと言ってんの」

「てか、もう一年なんスよね? そんなに気になるなら、会いに行けばいいじゃないスか。向き合ってみれば、案外、すっきりするもんすよ」


 兵藤の突飛な言動などいつものことなのに……それでも、その一言は俺には衝撃的すぎて、面食らった。


「会いに……行く……?」


 出てきた声は、自分でも驚くほど素っ頓狂だった。


「いや……ありえないだろ、それは」

「なんで、スか」


 まるで子供のように純真そうな瞳でこちらを見つめ、兵藤は疑問をぶつけてくる。答えづらい疑問を……。


「なんでって……」


 兵藤は、言い淀む俺の心境など慮るような奴では無い。けろっとして、平然と言ってのけるのだ。


「大丈夫っすよ。捕って食われたりしませんから」

「そんな心配してねぇよ。人の元カノ、なんだと思ってんだ」

「じゃあ、行きましょうよ。会いに行ってみなきゃ、たぶん、戸井田さん、ずっとこのままですよ」


 おいおい、何言ってくれてんの。冷や汗のようなものが背中を伝っていくのを感じた。

 まるで、予言だ。未来でもその目で見てきたかのような確信に満ちた眼差しを俺に向け、兵藤は断言してきた。

 言葉が出てこなかった。

 兵藤は何も知らない。誰に聞いたかは定かでは無いが、俺が元カノに未練タラタラでウザい、というそれしか知らない。だからこそ、会いに行けばいい、なんて軽々と言えるんだ。それだけのことだ。それなのに――。


「なんだかんだ言って、リサさんだって、戸井田さんが来るの待ってるのかもしれないじゃないっスか」


 兵藤の言葉には妙な説得力があって、『会いに行く』なんて現実味の無い提案がもっともらしく思えてしまった。

 だから、その夜。『ラーメン、食いに行こうぜ』という堀からのメールに『リサに会いに行ってみる』と返事をして、俺は車で出かけた。

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