第2話 ワイングラスをかたむけながら

「だーっはっはっは! そんでまたフラれちゃったの、瀬羽せばちゃん」

「フラれたって、そんなあ。色恋じゃないって言ってるだろういつも」

「ん。まあこれでも飲みな。一杯サービスだ」


 カウンター越しに、店主が僕に差し出したのは一杯のグラスワイン。

 どうにもやるせなくて、ぐにゃりと上半身を曲げて、天板に頬をつけたまま、置かれたワイングラスのステムを指でなぞった。


「…………」

 薄暗い店内奥のテーブル席に座っている客たちをぼんやりと眺める。

 フォークに突き刺されたほうれん草ときのこのキッシュが口元へと運ばれ、喉を通っていく。首から顔のほうへ視線を移す。なんだ。二十歳そこそこの男の子か。ああいけない、なんだかおいしそうに見えてしまう。

 男の子と同じ卓についているあとの二人は……うーん、パスかな。なんて。より好みできる立場じゃないよねえ、たぶん。いまの僕。


「瀬羽ちゃん」

「……ん」


 店主に名前を呼ばれて我に返る。スペインバル『ロサ・ロハ』。神戸三宮の繁華街からほんのすこし外れた路地裏にある、いわゆる隠れ家的存在のお店。店名はスペイン語で、赤い薔薇という意味を持つ。お店の雰囲気が気に入って通い始めて、二ヶ月ほどまえに、赤ワインを飲むふりをして持ち込んだフレッシュな血液をグラスで飲んでいたらとうとうばれちゃって。でもそれがきっかけですったもんだの末に店主と仲良くなれたし、まあ、結果オーライってやつなんだと思う。彼は、人間でただひとりの僕の理解者だ。恰幅のいい、脂たっぷりのおじさんなので〝間違い〟が起こりようがないのもいい。


 体を起こしてひと口、ワインを飲む。

「栄養源、って感じの味がするよ。マスターのガスパチョのほうがよっぽどうまい」

 グラスをカウンターにおいて、アルコール混じりのため息をつく。

「そうかい、そいつは嬉しいね。グルメ口コミサイトのレビューなんかだと『クサい』とかってけっこう酷評だったりするんだけどさ。俺ぁやっぱり、ガスパチョはにんにくが効いてこそだと思うんだよな──んでも、大丈夫なのかい?」

 店主がグラスを拭き上げながら聞いてくる。

「僕はね」

 小さく答えて、僕はタパスの盛り合わせに添えてあった焼きプチトマトに爪楊枝を刺した。ぷしゅ、と皮がはじけて朱色の果汁が皿の上に広がった。


 栄養源を腹におさめ終え、手持ち無沙汰にアプリを開いておいしそうな近場の女の子を探す。ラストオーダーの時刻も過ぎ、ほかの客は店を出て、店内には僕と店主の二人だけだ。そういえば、とふと思い出す。

「あれ? そういえば、キープしてたボトルは?」

 中身は血液だ。

 ありがたいことに、店主公認のもと冷蔵庫の奥にしまってもらっている。

 入手方法については言っていない。聞かれてもいない。こちらから話したことと、人間界における吸血鬼の共通認識以上のことには深入りしてこない。店主の堅野さんは、血液が不味そうなこと以外はパーフェクトなお人だ。たまたま遭遇した起きたての殺人事件の現場から失敬しただなんて、口が裂けても言えない。

「あれかい? あれ? 聞いてないのかい」

「え」

 頭にハテナマークを浮かべていると、カラカラン、という音がして入り口の扉が開いた。

「お。噂をすれば」


「マスター! もう閉店時間だろーけど、一杯だけいーい?」

 体の向きはそのままに、首だけ回して声のしたほうを見る。

「ってせんぱ〜い! 来てたんスか?」

 笑顔の仮面でも張り付けてるんじゃないかってくらいに、いつもニコニコしているお調子者。

「ユーリィ」

 名前を呼ぶと、よりいっそうのニコニコ顔になったから、やっぱり仮面じゃなくてこういう顔なんだなって思う。

 店主の返事も待たずに「あマスター、おつまみもあったらつけてよ。にんにくが使われてないやつね」と続けて、ユーリィは僕からひとつ席を空けて座った。さっき自分で一杯だけと言っていたじゃないか。どこまでも自由なやつだ。僕よりは少し背が低いけれど長身痩躯、つやのあるアッシュブラウンの髪、標準的な顔。けれどもそれは、僕らのなかではってだけのことで。

「いやー、今日も売り上げヤバすぎて大変! シャンパンタワーが六甲おろしってカンジ」

 訳の分からないことを言いながら、ユーリィが僕に人懐こそうな笑顔を向ける。卓上のワインリストを開いて内容を吟味しながらも、ユーリィの口は動いたままだ。

「な・に・に・し・よ・う・か・な〜……先輩スペシャルはこないだ一位更新祝いで空けちゃったしな〜……」

「は? え?」

 先輩スペシャル。それってつまり。

「……えへへ、」

 思ったより低い声が出ていたらしい。ユーリィの笑顔が固まる。

「やっぱ、マズかったですか?」


 マズいわーっ! お前のような女とやりたい放題、すなわち血も吸いたい放題の(人間界基準の)ウルトラスーパーイケメンと違って、(日本人の女から見た)顔面偏差値52の僕みたいな吸血鬼にとって新鮮なナマの血液は貴重なんだぞ、それがわからないのか! つーかあの子、報道で知ったけど14歳だったんだぞ、14歳! だからおすそ分けする時だって一杯だけ特別な、て言ったじゃないか!


 と言いたかったがぐっとこらえた。

 紳士に。どこまでも紳士に。だからせめて52って思わせて、言わせてほしい。

 そう、眷属にはつとめて優しく。


「まったく。食いしん坊だなお前は」

 フ、と笑って(果たして笑えていただろうか)、僕はユーリィの頭をくしゃりと撫でた。

 ワックスで隙がなく整えられた髪を少しばかり乱してやる。よし、これくらいで許してやろう。

 ユーリィからワインリストを取り上げ、「マスター、サンジョベーゼで頼むよ。お代は、僕につけておいて」と言うと、カウンターの向こうから「あいよ」と元気な声がした。

 こいつは優柔不断なんだ。もう夜中の2時過ぎだ。店主だって、店を閉めないといけないんだから。

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