第59話 靴の紐を結んでいる時には話しかけないでほしい
茶碗は籠と共に、オークションの落札額に続く値段で買い取られた。
それで納得したのか、本当は江戸時代の作だった古瀬戸の茶碗が騒ぐことはもうなかった。
茶碗が騒ぐ騒がないに関わらず、その売却とヤクザへの返金の目途がつけば、武智親子がこの唐鼓の街にいる理由はない。
いやいやながらあの親分さんと連絡を取り合い、400万円の振込口座を指定してもらうと、井光はさっさと荷物をまとめて帰ってしまった。
縞ジャケのヤクザに知られた電話番号を、すぐに変えなければならないとぶつぶつ言いながら。
もちろん、応が徹から取り上げた小切手を、これ以上ヤクザと関わるのを渋る井光に平身低頭して託したのはいうまでもない。
船越に至っては、ゴタゴタを金で解決してしまったら、あとは息子を連れて帰るだけである。
だが、思いがけず傑の頑強な抵抗に手を焼き、大阪に戻ったら覚悟せえと言い残して去っていった。
しかし、何の心配もなくなったはずの徹もまた、どこかへそそくさと出かけていく。
慌ててそれを追いかけようとする応を、友愛は呼び止めた。
「困るやん、うちも大阪帰んねんから」
素っ気ない返事が返ってきた。
「え? 何だって?」
応は靴紐を結ぶのに忙しかったのである。
縞ジャケたちが茶碗に払った金を返す段取りはしたものの、船越が籠を買った代金の半分に当たる200万円は大金だ。
父親を放っておけば、何に使われてしまうか分からない。
急いでいる時に限って、指先でやることはうまくいかないもののようだった。
ましてや、横から声を掛けられるときはなおさらである。
「ちょっと聞いてくれへん?」
苛立ち紛れに話しかける友愛に、応も焦りを顔に出しはじめた。
「急いでるんだ、後でいい?」
ムッとする友愛は、意地を張る。
「今、聞いてんか」
応も負けてはいない。
「手短にね」
強気で返されて、友愛はちょっとたじろいだ。
高飛車に出たのを反省したのか、改まった口調で切り出す。
「隠しとったことがあんねん」
聞いているのかいないのか、よく分からない返事が聞こえた。
「何を?」
応は靴紐から目を離さない。
その後ろから、友愛は囁きかけた。
「うち、応のこと騙しててん。うち、何とも思うてへんかったんやから」
「何のこと?」
応は堅結びにしてしまった靴紐を、指先で揉んでほぐす。
耳元の囁きを聞いているのかいないのか、傍目からでは分からなかった。
「初めて会うたとき、あのおっちゃんたちが、トオルとかイワネとかコタエとか言うのが聞こえてん」
あのヤクザと警官たちの会話のことである。
「うち、石根徹って名前は知ってたから、応くんが息子やってすぐ分かってん」
応は何も言わなかった。靴紐はまだほどけない。
「だから、あないなこというてん。好きやっちゅうてん。最初っから、利用しようとしててん。お父ちゃんの商売終わるまで……」
やっと靴ひもが解けた。応はするすると結び直す。
友愛の目には、涙が滲みはじめていた。
「許すなんて言わんでええ。憎んでくれてええねん。嫌うてくれてええねん。こういう女やし、慣れてるし、そんなん」
そこで初めて、応は返事をした。
「え? 何の話?」
少女の真剣な告白を、聞いていたのかいなかったのか。
「もおええわ」
友愛はむっとして立ち上がると背中を向けて、部屋の隅で帰り支度を始めた。
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