第57話 茶碗の恨みの後始末

 息子への長い説教を終えた船越は、その後にオヤジたちに向き直ると、挨拶をひとことふたこと付け加えた。

 やがて、額面400万円の小切手を畳の上に置くと、徹の前に差し出す。

「どうぞ、お受け取りください。私も昔、この街に住んでいたことがありまして。お役に立てて光栄です」

 船越は、これを届けるために大阪から車を走らせてきたのだ。

 あの縞ジャケのヤクザに小切手を渡して、息子が思いを寄せる相手と、その父親を救おうとしたのだろう。

 それが分かったのか、すっかり酔いが醒めた徹は目を白黒させて頭を掻く。

 だが、それでも体裁を繕いながら、努めて平静に答えてみせた。

「いや、どうにも思い出せねえ……」

 もちろん、最後には受け取るつもりだろう。

 だが、すぐに手を出すまいとする見栄はまだ、残っているらしい。

 船越は船越で、かえって恐縮していた。 

「その方がありがたい。こちらも、お恥ずかしい限りです。どうやら、私の悪いところばかり見て育ったようです」

 すると、徹も震えあがった。

「いや、こっちこそみっともねえ」

 いつになく謙虚なのは、知らないこととはいえ、詐欺を働きかかったことを船越から教わったからである。

 もっとも、そこは船越も心得たもので、オヤジふたりに息子や娘の前で恥をかかせたりはしない。

 その辺りは最初の挨拶に混ぜ込んで、さらりと流してしまっていた。

「危ないところでしたよ。訴えられないうちに、さっさと返してしまった方が無難です」

 今度は井光が小さくなった。

「しかし、こないな大金を……」

 確かに、茶碗を買い取る代金としては高すぎる。

 だが、船越は、顔の前で手を振った。

「とんでもない。茶碗でなくて、籠に価値があったんです」

 徹が、しまったという顔で額を叩いた。

 目利きのできない素人の悲しさ、そちらを最初から売りに出していればよかったのだ。

 船越はもっともらしく頷いて話を続ける。

「あるんです、そういうことは。あの籠は明治に入って、佐原鄧九朗さはらとうきゅうろうという美術家によって作られたものです。今で言ったら人間国宝級の伝統工芸家ですよ」

 そこで徹が、そらみろと応を睨む。そんなものが簡単に手に入るわけがないと最初に言い切った応は、知らん顔をした。

 船越はそれがよほどおかしかったのか、説明にも笑いが混じっていた。

「今では知る人ぞ知る、といった芸術家で、骨董の収集家でもありました。私を信用して買い手になってくれた骨董仲間によれば、個人的に買った茶道具の入れ物を、自分で作ったものだろうということです」

 だが、井光が怪訝そうに尋ねた。

「そないな名品が何でまた、私のお得意さんのところに……いやね、それほどお金のある人でもおまへんのに」

 船越の返事は、深刻な内容の割にさらっとしたものだった。

「ところが、急に身の回りの人が事故にあったり亡くなったりしたもので、鄧九朗が調べてみたら過去の持ち主はみんな病死したり切腹したりで、何でもその最初は、豪商の茶会で茶碗にケチをつけられた江戸時代の茶人の自殺だとか。そこで鄧九朗も、自分の籠と共に手離してしまったそうなんです。買った人は迷信だと笑っていたそうなんですが、やはり早くに亡くなったとか。ああ、そうそう、最初の持ち主だった茶人は、誰か世間相場の2番目でいいから茶碗の値打ちを認めてほしかった、と最後に言い残して席を立ったのだそうです」

 その話に何を感じたのか、茶碗がまた、カタカタと鳴った。

 猫たちの髭が震える。

 重苦しい空気を、「禍事」が感じたのだろう。

 人間というものは、こういう話に弱いものらしい。

 気の小さい応や井光はもちろんのこと、気丈な友愛も黙り込んでしまった。

 徹が何も言わないのは、おそらく別の理由がある。

 おおかた、そんな古道具のためにムダな手間をかけてしまったという後悔だろう。

 今後、この手のもので金儲けを企むことだけはあるまい。

 長い沈黙の後、井光が同情のため息と共につぶやいた。

「はあ……せやったらいろいろとあったんでしょうなあ、お得意さんにも」

 すると横から友愛が、せやからお父ちゃんに押し付けられたんや、とぼやいた。

 だが、それでおしまいだった。

 気を取り直した徹が、何事もなかったかのように小切手を懐に入れたのだ。

 茶碗はそれで静まり返り、猫たちの髭の震えも止まった。

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