第54話 木に登る猫をおだてると……。
虎徹の髭は、まだかすかに震えていた。
縞ジャケットのヤクザどもは追い払ったが、唐鼓の街の下では「禍事」がまだ暴れているのだった。
茶碗の抱えた恨みは、まだ清められていないのである。
空に浮かんだ孫六の顔は、目を吊り上げて歯まで剥いている。
「はよ黙らせんかい、その茶碗」
急かしてくるその声もまた、「幽世」越しの声にしては、妙にはっきりしていた。
それだけに、虎徹はよけいに不機嫌になって言い返した。
「どうにもならねえから困ってんじゃねえか」
黙らせようにも「清め」の力はもう働いていない。
それを操るオヤジは両方とも、気を失っている。
この場で打てる手はもはや、なにひとつとしてなかった。
「せやけど、最後はお前の仕事やんけ」
確かに、この唐鼓の街に送られてきた人や物の恨みつらみを清める手はずを整えるのは虎徹の役目である。
だが、それも徹の「清め」の力があってこそだ。
それが期待できない以上、茶碗の怨念を鎮める方法があるとすれば、茶碗の買い手を見つけることだけである。
そこで虎徹はぼやいた。
「猫にモノが売れるわけねえじゃあねえか」
ついた値段のうち、2番目に高い額でという条件がついている。
しかも、その額はもう決まっていた。
井光がネットオークションで落札したことになっている額が500万円。
さっきの縞ジャケの親分がつけた値段が400万円。
だが、その額で買い取った親分さんは、茶碗が偽物だと見抜いて金を返せと言っている。
これでは、売れたことにならない。
それが分かっているのかいないのか、孫六はあっさりと言い切る。
「探したらええやろ、買い手」
そういう問題ではない。
あのヤクザの親分さんが、自分がつけた値段ほどの価値はないと言い切ったのだ。
孫六には何を言っても無駄だと思ったのか、虎徹はぶつぶつと独り言をいう。
「400万で売れなくちゃ意味がねえだろ」
徹がやったような詐欺を働かない限り、この茶碗が必要な値段で売れるわけがない。
そうでなければ、誰かが400万円を立て替えて、それほどの価値のない茶碗を引き取らない限り、その怨念は晴れないのだ。
そんなうまい話がそうそうあるわけがない。
だが、孫六は気楽なことを言う。
「あのトオルの面倒みられる虎徹なら売れるんちゃうんか」
青空に浮かぶニヤニヤ笑いを見上げて、唐鼓の街に何百年も住んできた猫は顔をしかめた。
つぶやくような声で毒づく。
「調子のいいことを」
だが、孫六はますます調子に乗る。
くだらない喩えで虎徹をさらに持ち上げた。
「ブタもおだてりゃ木に登るっちゅうやないかい、木に登れる猫にでけへんことがあるかいな」
いかに小判の価値が分かる猫であろうと、それを使えるかどうかは別問題だ。
その小判にしても、物と引き換えに人の手から人の手に渡って初めて価値を持つ。
金と引き換えに猫の手からものを受け取ろうという人間がいようか。
さすがに虎徹も食ってかかった。
「お前なあ、他人事みたいに言ってんじゃねえぞ」
徹はおろか井光にも、銭金の問題はどうすることもできまい。
ましてや、猫には。
同じ猫に無茶を言うにもほどがある。
だが、孫六は、悪びれもせずにあっさりと言った。
「しゃあないな、そっち行くわ」
確かに、近くには来ているようである。
だが、そもそも猫1匹で、大阪からどうやって来るつもりなのか。
そういえば、「幽世」越しに見る虎猫の姿も、聞こえる声も、すぐ目の前にいるかのようだった気がする。
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