第52話 そして邪念は清められる

 目の座った井光が、身体をすくめた徹を従えて、縞ジャケどもに向かって歩いていく。

 預言者が海を割るのにも似た様子で、唐鼓の街のならず者どもは、殴り合いのしんがりから最前線に立つ者まで、残らず井光と徹に道を開けた。

 徹はともかく、井光の全身が発する気迫は見る者を震え上がらせる。

 武智親子に絡んだヤクザたちなどは、顔を見合わせて囁き合っていた。 

「あれ……昨日のオヤジじゃねえの?」

「何か……凄い人にケンカ売っちゃったとか?」

「謝りに行こうぜ……許してくれるかなあ」

 震えあがることはなくても、井光の雄姿に心打たれる者もいる。

 さっきまで疲れ切って道端にへたり込んでいた食堂のおばちゃんは、深々と頷くと、もっともらしく言った。

「久しぶりに見るねえ、ああいう男は。その筋じゃ相当、名前も知れてるだろうよ」

 まさか大阪近辺で、顧客に足下を見られどおしの営業担当だとは誰も思うまい。

 唐鼓の街のヤクザチンピラたちが開けた道を抜けると、そこはまだ、傑が目を回してひっくり返っている。

 その傍らに、徹は身をすくめてうずくまった。

 起こしてやろうとでもいうのか、おどおどと揺さぶったりつっついたりしている。

 それを無言で一瞥すると、井光は縞ジャケどもの眼前に歩み寄った。

 たちまちのうちに、その10人あまりが一斉に襲いかかる。

 3人か4人もいれば取り囲むのに十分なはずなのだが、なぜか人数分の拳が左右構わず繰り出された。

 理由は単純である。

 まっすぐに歩く井光の身体を、そのひとつひとつがつき抜けていったからであった。

 だが、その身体から血が流れることはなかった。

「お父ちゃん!」

 友愛は悲鳴を上げたが、井光は無傷で歩き続ける。

 叩きつけられた10人分の拳は、ひとつも当たってはいなかった。

 神速の体捌きに紙一重でかわされ、その残像だけが絡みついたのだった。

 逆に、井光が通った後に立っている者はない。

 すれ違うたびに、ひとり、またひとりと地面に伏していく。

 それは、何百年も生きてきた猫だからこそ見切ることができる早業だった。

 目にも止まらぬというのが陳腐に聞こえるほどの速さで、井光の拳が急所という急所に叩きこまれたのである。

「おじさん、すごい……」

 応がため息をついたときには、「禍事」に憑かれた縞ジャケたちは全て倒されていた。

 地元のならず者たちから歓声が上がる。

 だが、縞ジャケどもの背中から立ちのぼる邪念のゆらめきは、まだ消えてはいなかった。

 その向こうにある唐鼓の街の家並みは蜃気楼のように霞んで、強い風がひと吹きすれば消えてしまいそうだった。

 だが、今度は倒れ伏した縞ジャケたちの前に、徹が立ちはだかる。

 食堂のおばちゃんが、同情混じりにつぶやいた。

「気の毒に……あの連中、命があるといいんだけどね」

 だが、徹は身動きひとつできない縞ジャケたちに襲いかかって、とどめを刺したりはしなかった。

 それどころか、いきなり膝をつくや、深々と土下座したのである。

 恭しく述べ立てた口上は、こうであった。

「遠いところからお越しのところ、面目次第もごぜえやせん。いろいろとお気に障ることもあったかと存じますが、何とかお許し下せえ。今日のところはどうぞ、お帰りを伏してお願い申し上げやす」

 そのときだった。

 どこからか吹いてきた昼下がりの風が、さあっと駆け抜けていった。

 邪念の渦と肌に痛いほどの緊張感は、いつのまにかどこかへ消え失せていた。

 昼前に戻ると予告した傑が現れて倒れてから、どれほどの時間が過ぎたか分からない。

 見当がつくのは、おそらく、誰も昼飯を食べてはいないだろうということだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る