第42話 オヤジたちが猫と共に戦う

 猫はこういうとき、人間のすることには干渉しない。

 住む世界が違うからだ。

 ましてや、「幽世」と「現世」をつなぐ猫ともなれば……。

 だが、今は違う。

 茶碗の怨念に引かれた情欲に取り付かれた無法者が、ひとりの少女の純潔を汚そうとしている。

 「禍事」に捕らわれ、欲望を剥き出しにする者は、もはや人間ではない。

 その悪事を見逃すわけにはいかなかった。

 虎徹は全身の毛を逆立てて唸ると、畳を蹴って天井高く跳び上がる。

 そのままデカブツに襲いかかると見せかけて、目の前にひらりと飛び降りる。

 かと思うと、次の瞬間、相手の首元に飛びかかった。

 デカブツは、これを振り払おうというのか、掌を横に薙ぐ。

 だが、もともと猫のジャンプなど、そこまで届きはしない。かえって、でかい掌は空を切る。

 音もなく着地した虎徹は、再びデカブツに飛びかかる。だが、その掌はまた、空を切った。

 それがどれほど続いたろうか。

 デカブツも猫には高を括ったのか、とうとう、虎徹が跳んでも掌は飛んでこなかった。

 だが、これこそが狙いだったのである。

 賢い猫は鼠を捕るとき、怯えているふりをするという。油断した鼠をとことん遊ばせて、疲れさせるためだ。

 だが、疲れ切ったそのときには、もはや逃げきるだけの体力が残っていないというわけだ。

 その隙を突けば、どんな大きな鼠でも取り逃がすことはない。

 ただし、これはあくまでも猫と鼠の話であった。

 猫1匹に食いつかれたとしても、人間にとってどれほどのことがあろうか。

 虎徹はあっさり首筋をつかまれて、戸口に向かって放り出される。

 何とか壁や柱、外の車にもぶつかることなく、戸口の手前で着地できたのは、猫ならではの芸当と言ってよい。

「アホ、そろそろ耄碌したんと違うか」

 孫六の笑い声が、「幽世」を通している割には、いつもよりはっきりと聞こえる。

 虎徹を、おわあ、と鳴いて返してやった。

「大阪で笑ってるヤツに言われたかあねえな」


 だが、虎徹のやったことは無駄ではなかった。

 立ち上がろうとしたデカブツは顔面から倒れ、再び鼻血を噴く羽目になったのである。

 猫に気を取られている間に、目を覚ました井光に足首を掴まれたのだった。

 畳の上から、呻くような唸り声が聞こえる。

「ワイの娘に何すんじゃワレ」

 ふらふらと立ち上がったデカブツは、身体を起こした井光に頭を引っ掴まれた。

「デカい顔しとるやんけ」

 そう言うなり、井光は強烈な頭突きを食らわす。

 だが、デカブツも負けてはいない。お返しに、自分の頭を徹の額に叩きつける。

 それが何度繰り返されただろうか。

 お互いの動きが、一瞬だけ止まった。

 見交わす顔と顔からそれまでの険しさが抜け落ちて、不思議な笑みが浮かぶ。

 辺りがなにやらふっと明るくなった。

 かと思うと、部屋にはまた、元の薄暗さが戻ってくる。

 そのときには、井光もデカブツも、その場に倒れていた。

「お父ちゃん……」 

 娘が胸のはだけるのも構わず父親に駆け寄ると、いびきが高らかに聞こえた。

「もう、知らんわ……」

 その目から、ひと筋の涙がこぼれる。

 応はといえば、なぜか2発より多くは殴られてはいなかった。

 それどころか、友愛と井光の戦いのなりゆきを見届けることさえできたのである。

 そこではっと振り向いたときに、事の次第がはっきりした。 

 背後の子分は立ったまま、泣きじゃくる徹のチョークスリーパーで眠らされていたのだった。

 その足下には、空になった1升瓶が転がっている。

「父さん……」

 応の呼びかけに、返事はない。

 徹が泣きながら子分を解放してやると、その身体は膝から落ちた。

 だが、彼の戦いは終わらない。

「もうやめましょうや、こんなこたあ……」

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、親分の縞ジャケに歩み寄る。

 もっとも、そんなことで平和が訪れれば、誰しも苦労はいらない。

 縞ジャケが1升瓶を掴むなり、柱にぶつけて叩き割った。

 手元に残った鋭い破片が、凄まじい速さで、徹の喉元を狙う。

 だが、それは空を切った。

 いるべきところに、徹の姿はない。

 紙一重の差で、身をかわしたのだった。

 代わりに、その位置には親分の縞ジャケが倒れていた。

 その傍らには、いつのまにか徹が正座している。

「どうなさったんでえ、旦那、しっかりしてくださせえ」

 自分でやっておきながら、必死で揺すり起こそうとする。

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