第38話 暴走するオヤジたち、困惑する少年少女

 家の外から戻ってきた虎徹が、何やら疲れ切ってふて寝するかのように、畳の上でぺたりと伏せる。

 だが、肴もなしに酒盛りを始めた男たちはおろか、その場にへたり込んだまま絶望しきったそれぞれの息子と娘は、そんなことには気づかない。 

 1升瓶の中身を仲良く分け合うオヤジ2名は、相変わらず、差しつ差されつやっている。

 だが、よく見ると、そこには奇妙な間違い探しの画が出来上がっていた。

「まあ、オマエの倅と、俺の娘に免じて、なあ」

 そう言いながら1升瓶を傾けるのは、徹ではない。

 むしろ徹は正座して、コップを両手で恭しく差し出すほうである。

 酒を注ぐ井光の前で何やらすっかり恐縮して、返事もままならない様子であった。

 口にできるのは、もはやこのひと言だけである。

「はあ……」

 いつの間にか、傍らでころりと寝返りを打って丸くなった猫にも気づかず、徹は身体をすくめると、注がれた酒をおしいただく。

 それをいっぺんに飲み干した徹は、井光の手から1升瓶を受け取った。

 当然のように片手で突き出されたコップに、酒をちょろちょろと、慎重に注ぐ。

 ひと滴の酒さえもムダにするまいという緊張感が、そこにはあった。

 完全に、力関係が逆転している。

 だが、それを見守る少年と少女に、驚きの色はなかった。

 むしろ、無言の中に静かな諦観の趣さえ見て取ることができる。

 そんな雰囲気の中で、1升瓶がオヤジふたりの間をどれほど往復したことであろうか。

 酒が飲み干され、空の瓶が畳の上に転がったとき、井光は徹を見据えて重々しく言った。

「ちゅうわけでな、ワイの娘を頼むわ」

 そこで初めて、友愛が口を開いた。

 だが、お父ちゃん、という娘の声など、井光には聞こえてはおるまい。

 片や、それは応にとって、夢のような申し出ではある。

 だが、その顔に喜びは見られない。

 むしろ、いきなりの展開にうろたえたのか、真っ赤になってうつむくばかりである。

 更に、その父親の徹はといえば、恐れ入って平身低頭するばかりであった。

「ですから、なにとぞ、それはご勘弁を」

 友愛への恋を成就させられる、せっかくの好機が台無しである。

 だが、それを聞いた応はというと、安堵の表情さえ浮かべていた。

 この辺りは、やはり親子である。

 気が小さいということでは、酔った父親とたいした違いはない。

 だが、井光はそれが気に食わないようであった。

 掌で畳をぶっ叩いたかと思うと、徹を叱り飛ばす。

「なにへいこらしてんのや、これで貸し借りなしやろ。さっきちょっと呑んでから、2番手と話ついて、向こうがつけた値の半分を200万円ずつ、俺とお前の口座に振り込ませたやないか」

 凄まじい勢いでまくしたてる。

 とても成績不振に悩む、家具屋の窓際営業担当とは思えない。

 少年と少女は、ただただ顔を見合わせるばかりだった。

 鈍臭いとか言ってたんだけど、と応が囁く。

 ほんまにあのお父ちゃんか、と友愛が微かな声を震わせた。

 そこで、徹が口を挟んだ。

「へえ、電光石火の早業たあこのことで」

 卑屈におだてあげると、井光はますます調子に乗った。

 シラフのときは小理屈が多くて分からなかったが、根は単純な男らしい。

 すっかり気が大きくなったのか、叩く口も大きくなる。

「200万では少ないかもしれんが、まあ持参金や思うて、娘を可愛がったってくれ」

 何やら、酔った親の間だけで、息子と娘の将来に関する重大な話が進んでいた。

 応がちらりと友愛の様子をうかがう。

 酒の上の話とはいえ、相手がどう思っているのか、気にしないではおられまい。

 友愛は友愛で、困ったような顔でそっぽを向いた。

 こんなとき、少年相手にどう振る舞えばいいのか、さすがに気になるのだろう。

 だが。

 酒の上での早すぎる縁談は、新郎側の父の心変わりで脆くも壊れた。

 徹が、遠慮がちに申し出る。

「お金貰っといて何なんですが……やっぱりこれ、詐欺じゃあねえかと」

 その場の空気が、落雷の前のように冷え切った。

 凄まじい怒号が、ボロ家を震わせる。

「何やと!」

 井光が目を剥いて、徹を怒鳴りつける。

 応はその場で縮み上がった。

 友愛は慣れきっているのか、恥ずかしそうにうつむく。

 徹は、猫だましをくらった猫のように縮こまった。

 井光の激昂は、なおも続く。

「おんどれ、ワイの娘を何やと思うてるんや!」

 仁王立ちする井光の前で、徹は平伏する。

 情けない声で、許しを請うた。

「面目ねえことで、お金も先方に返そうかと……」

 もうほとんど涙声である。

 だが、鬼か羅刹と化した井光に、もはや泣き落としなどは通じなかった。

 徹の髪を引っ掴んで身体を起こしたかと思うと、ほとんど泣きべそをかいている顔面を、アイアンクローで持ち上げる。

 その目の前に顔を突き出した井光は、その鼻の頭に噛みつかんばかりの勢いで凄んだ。

「何言うてんねん、ワシの方の金、口座からお得意さんに振り替えられるようになっとんねん! もう残ってへんわ!」

 いらんところで手回しええんやから、と友愛が嘆息する。

 そのときだった。

 虎徹が突然、全身の毛を逆立てて立ち上がった。

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