第36話 茶碗を巡る、猫たちの意地の張り合い
よく晴れた5月の空を見上げると、太陽はもう随分と高く昇っている。
そろそろ、昼近いのだろう。
天からの風が、堰を切った水のように、いっぺんに吹き下ろしてくる。
凄まじい勢いで、しか猫にとっては爽やかに、その背中の灰色の毛を撫でててゆく。
虎徹は尻尾と耳を、同時にピンと立てた。
まるで、それはアンテナとレーダーのようにも見える。
清々しい天気に、気分が高揚していたからというだけではない。
嵐の去った後の風が、「幽世」を通して微かな声を運んできたのだ。
大阪猫の孫六が、陽気に語りかけてくる。
「昨日はえらい大雨やったなあ、そっちはどうやった」
その言葉は絶え間ない風となって、唐鼓の狭い道を吹き抜ける。
虎徹はそれに応えるために、おわあ、と鳴きつづける。
人の目から見れば、春を過ぎても猫がさかっているように聞こえるだろう。
だが、実を言うと、それは虎徹から孫六に向けられた、ただの悪態であった。
「そっちで降ってた雨がだな、こっちじゃ真夜中に来たんだあな」
それが、「
裏を返せば、その「幽世」で「
更に今日は、不思議なことがある。
遠く大阪にいるはずの孫六の姿が、空に浮かんでぼんやりと見えるのだ。
黄色い毛に横縞のある虎猫が、いかにも深刻そうな顔をして言う。
「あの茶碗についてったんやろ。持ち主の恨みは相当なもんやで」
虎徹としても、そんなことは分かっている。
むしろ、気になるのは孫六の姿が見えることだ。
疑わしげに、虎徹は尋ねる。
「お前、本当はその辺にいるんじゃねえのか?」
孫六が目をそらして、すっとぼける。
ただ、その物言いには奇妙な含みがあった。
「さあな……だいたい、お互いのことは詮索しないのが俺らの決まりやないんかい」
飼い主のことも含めて、そういうことになっている。
もっとも、虎徹の場合は自分から飼い主のことを愚痴っているのだが。
それを棚に上げて、虎徹は八つ当たり気味に文句を言う。
「あんな面倒臭え茶碗送りつけといてだな、なに白々しいこと言ってんだ」
だが、孫六は意にも介さない。
何を考えているのか、にやにや笑うばかりである。
やがて、ごねる子供を教え諭そうとするかのような、穏やかさの中にも相手をどこか見下した口調で言った。
「そういうもんを引き受けて始末するんがお前やないのんか」
どうも、この言い争いは虎徹に分がないようである。
だが、振り上げた拳をなかなか下ろせない辺りが、飼い主と似てきたところか。
「違わい、アレが引き寄せたもんをトオルがナニするのよ」
アレとは、あの「禍事」のことである。
では、ナニとは何か。
それこそが、猫に選ばれた男たちが持つ「清め」の力であった。
猫たちは、その力を持つ者を探し出してはその家に居座り、世のため人のために働かせてきたのである。
だが、中にはこういう横着を言う者もある。
「引き寄せられたんやったら、ワイが送ったもんやないやろ」
人間の子供のような屁理屈を言う。
そういう手合いとまともに相手をしてはいけない。
だが、それが分かっていても、怒りはすぐにそれを忘れさせてしまうものだった。
虎徹も、いったんは自分も了解したことで孫六に食ってかかった。
「キーボード叩いてここ探し出したん、孫六やないのか」
確かに、茶碗をめぐるこの修羅場、元はといえば、この猫の井光に対するお節介から始まったことであった。
茶碗を持った井光をこの唐鼓の地に導かないと、たいへんなことになるからだ。
そもそも、恨みつらみのこもったモノは「禍事」に引き寄せられるようになっている。
だが、すぐに唐鼓の地にたどりつけなければどうなるか。
昨日のようなことになるのだ。
嵐を起こしたり、昔話の蛇や五通といった類のものを引き寄せたり……。
孫六はそうした事情を、茶碗を送り込んだことへの責任逃れに利用する。
「それだけ面倒な茶碗やったんや。割ったら割ったで恨みはよけいに募るし」
理屈としては、確かにそう言えなくもないこともなかった。
だから、安全を保つためには、少しでも早いうちに唐鼓へ送り込んでやらなくてはならない。
それが、猫たちに貸された使命である。
誰が定めたものかは、遠い昔のことでもう分かったものではないが。
だが、虎徹はなおもぼやいた。
「いくらアレがそういうもん引き寄せるっても、限度ってものがあらあな」
孫六の幻影は、もっともらしく頷く。
それだけではない。
やはり、意味ありげな口調で答えた。
「そうやなあ、あの嵐だけで済んだらええよなあ」
何か隠しているようである。
虎徹は、さらに追及した。
「本当は何か、知ってんじゃねえか」
返事はなかった。
再び、天からの風がどうと吹き付けてきたばかりである。
虎徹は、なおも空を仰いで叫んだ。
「おい、逃げんじゃねえ! どこにいるんでえ、おい!」
だが、逃げた孫六は地面にも天空にも、姿を現さない。
仕方なく、虎徹は猫として主人のもとに戻るより他になかった。
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