第35話 オヤジたちがついに禁を破る
猫が家に戻ったときには、既に遅かった。
全ては徒労に終わってしまったのである。
人の恨みつらみ、つまり「禍事」を抱え込んだ茶碗のことではない。
それは籠に入ったまま、畳の部屋の隅でじっとしている。
問題は、オヤジ2名であった。
せっかく若いふたりが各々の父親の不始末を未然に防ごうとしているのに、全ては無駄になった。
友愛が応と共に死に物狂いで探している父親の井光は、とっくに1升瓶を2本背負って帰ってきていたのだった。
だが、この家にはもともと、ビールすら置いていない。
応が徹にコップ酒すら持ち込ませないよう、完全に管理しているのだった。
従って、徳利などというものがあろうはずがない。
徹は1升瓶を抱えて、盃の代わりのコップに酒を注いだ。
「まあ、飲め。うまく行ったじゃねえか、ほれ、俺からほれ、あの、アンダービッダーってえのにも誘いはかけたし」
オークションで入札額が2番手になった参加者には、もう徹から連絡を取ったらしい。
井光は恐縮しながら、それを押しいただく。
「はあ……せやけど、私の電話に連絡入れてもらうっちゅうのはどうも」
どうやら、2番手には井光のスマホの電話番号を教えてあるらしい。
嫌な役回りを背負わされたせいか、井光は酒の入ったコップを両手に持ったまま、中身を飲もうともしない。
その様子をじっと見ていた徹は、いきなり目を剥いた。
「俺の酒が飲めねえってのか? ……落札したお前が出品した俺に茶碗売り払いてえって言ったことにしねえと、辻褄合わねえじゃねえか」
落札したことになっている井光が、出品者である徹を通じて、2番手に品物を買ってほしいと頼んだ形になっているわけである。
見ず知らずの相手に電話番号を教えてしまった井光はすっかり縮み上がっている。
コップの中の酒に口を付けようとはしないでいるところに、1升瓶を畳の上に置いた徹が自分のコップを突きつけた。
「お前が飲まなきゃ、俺がその酒、注いでもらえねえだろ」
それでも飲もうとしない井光は、ぼそぼそと弁解する。
「すんまへん、娘がその、絶対に飲んだらあかんと……どうぞおひとりで」
未成年の息子に飲酒までも管理されている徹に、それを言ってはいけなかった。
まだ酒のなみなみと入っている1升瓶が、井光に突きつけられる。
アルコールが入る前だというに、目の座った徹が凄んだ。
「こんなでっけえ瓶から、どうやって手酌でやれってえんだ、ええ?」
そのとき、井光の懐でスマホが振動音を立てた。
徹に睨まれているせいで下ろすに下ろせない酒のコップを持ったまま、井光はもたもたと電話に出る。
「あ、どうも、はい、落札したの私です……、へ、へえ……」
脂汗を垂らしながら、電話の向こうの相手にヘコヘコしている。しまいには身体を強張らせて、ガタガタ震えだした。
徹が、怪訝そうに眉根を寄せながら尋ねる。
「どうしたんでえ? アンダービッダーか?」
返事の代わりに、井光は手元のコップから酒を煽った。見る間に、顔が真っ赤になる。
だが、電話の相手への受け答えは、人が変わったように流暢になった。
「へえ、では、入札額の400万円で……振込先は……」
そこで井光は、徹をちょいちょいと手招きする。
更に、パソコンを器用に操作すると、ワープロソフトを起動する。
そこにこう書きこんだ。
アンダービッダーからの連絡です。
石根さんへの代金振り込み先をこちらへお願いします。
徹が慣れない手つきでパソコンのキーボードを叩いて、自分の口座番号を指定する。
井光は、電話の向こうのアンダービッダーに、てきぱきと送金方法を指示した。
「では、400万円を200万円ずつに分けて、こちらと……こちらに……はい、ご面倒でしょうが、いろいろとこちらにも都合がありまして……」
やがて、電話は切れた。
井光は大きく息をつくと、1升瓶を引っ掴んで、徹のコップに酒を注いで言った。
「取引完了ですわ。さ、飲んどくんなはれ」
ぽかんとしていた徹だったが、やがて自分の分を飲み干す。
こうして、オヤジたちのささやかな宴会が始まった。
盃の代わりのコップに安い酒を差したり差されたりして、どれほど経ったろうか。
やがて、絶望のどん底に叩き落とされた応と友愛がふらふらになって戻ってきた。
……遅かった。
それが応が口にした、最初で最後の言葉だった。
ほろ酔い加減の徹は、もう上機嫌である。
「おう、アレよ、子どもの喧嘩に親が出るってえのはだ……」
井光もいつになく、調子がいい。
「しかもこういう、惚れたはれたの……」
ちゃう、ちゃうねん、と友愛が首を横に振った。
その話もうやめて、と目で哀願する応など井光は気にも留めない。
「まあ、石根はんもひとつ……」
徹は息子に睨みつけられて、持ち上げたコップをおずおずと引っ込めた。
「分かってらあな、もう飲みゃしねえよ」
だが、それは井光が許さなかった。
獣の唸り声が迫る。
「俺の酒が飲めねえってのか」
ウチ知らんで、という呟きが、その娘の唇から漏れた。
コップに注がれた酒を飲み干す徹に、息子はがっくりとうなだれる。
娘が囁いた。
逃げたらあかん、と。
彼女も耐えているのだった。
その父親はすっかり酒が回って、もはやそんなことなどお構いなしである。
猫の手に負える事態ではない。さっさとこの場を逃げだすのが、生き残るコツというものだ。
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