第32話 不器用な父が息子に伝える恋の手ほどき……それは玉砕
家の中に帰り着いた猫の前では、今までとはちょっと違う親子の会話が繰り広げられていた。
徹が、応の襟首を持って掴み上げている。
だが、息子の方は、怯んだ様子も怯えた様子もない。
「父さん、その話、もうちょっと巻きで」
徹も、入札の興奮が治まっていたせいか、話しぶりは割と落ち着いていた。
「あのオヤジ、ああ、井光ってえんだったな、祝い酒頼んだら断りゃあがるんで、外へ引っ張り出したんだな。そしたら、ほら、さっきのいい男とトモミちゃんがベタベタしてるじゃねえか、それ見たらあのオヤジ、店の場所も聞かねえでさっさとどっか行っちまいやがったのよ」
話は思いのほか、短くまとめられていた。
察するに、井光はあの
徹と仕組んだネットオークションのカラクリを娘の前で追及される前に、さっさと逃げ出したのだ。
ほとぼりが冷めるのを見計らって戻ってきたところで、娘に見つかって再び逃げ出したといったところだろう。
応は、徹の手でぶら下げられたまま、ぼそりとつぶやく。
「井光さんにお酒飲ませちゃダメだって……その」
その先は、言葉にならなかった。
友愛の名前を出せずに口ごもったところで、応はようやく足を戸口の床につけることができた。
徹が解放してくれたのである。
だが、応はそこで思い切り後ろ頭を張り飛ばされた。
呆然として振り向くと、虚ろな目で尋ねた。
「父さん……今、叩いた? 僕のこと」
よほど、意外な出来事だったのであろう。
少なくとも、猫の虎徹がこの家に居ついてから、徹が応に手を上げたことはない。
その振り上げられた拳が、ストンと力なく落ちた。
殴ったことのない息子を張り飛ばしたことに気が咎めたのか、徹は家の外へとふらふら歩いていく。
応に背中を向けたまま、つぶやくような声で説教する。
「女にふられて泣いて帰ってくるような腰抜けは俺の息子じゃねえ、とっとと迎えに行ってモノにしてこい」
珍しく、まともなことを言っているように聞こえた。
息子は、その言葉を戸惑いながら繰り返した。
「モノにするって……」
男と女の関係で、それが意味することは、ひとつしかない
友愛に対してはオクテの応も、父親が何を言ったかは分かったようだった。
それ以上は何も言えず、真っ赤になってうつむく。
羞恥を頬に溜めた息子に振り向きもせず、父親は背中を反り返らせた。
「男が女に挑むときゃあ命がけよ、俺んときはな……」
それは、応が友愛に語った、あの影から愛する女性を守ったときのことだろう。
思いあふれてか、その先を口にしない父親の代わりに、応は言葉を継いだ。
「母さんから聞いた、その話は」
口を挟んだところで応は、首をすくめた。
頭への拳骨を覚悟したのだろう。
だが、聞こえたのは低いつぶやきだった。
余計なこと話しやがって、と悪態をついた徹だったが、そこには憎々しげな口調はない。
代わりに、いきなり振り向くと、ツカツカと歩み寄ってきた。
肩まですくめた応は、目の前まで戻ってきた父親に、再び襟元を掴まれる。
いつもと違う父親のせいか、あまりにも無理の過ぎる難題を背負わされたせいか、敢えて抵抗しようともしなかった。
身動きもしない応は、そのまま、猫のように戸口から放り出された。
猫の虎徹がそこへ駆け寄ると、後ろから徹の声が聞こえた。
「だったら行ってこい、当たって砕けったって死にゃあしねえ」
言うのは簡単だが、応にそこまでの踏ん切りがついているようには見えない。
だが、徹の言ったことを実行しようとすれば、残された時間はわずかしかない。
ネットオークションのケリがついたら、友愛が敢えてこの唐鼓の街に留まる理由はない。
鈍臭くて甲斐性のない父親の面倒を見ながら、大阪への帰路を共にすることだろう。
やるなら、今、ここで行動を起こすしかない。
応は大きく胸を反らして、高々と昇った太陽の下で、初夏の空気を思い切り吸い込んだ。
さっき離れた場所に再び大股で歩み寄りながら、少しずつ顔を上げて、声を高めていく。
「友愛さん、聞いてほしいことがあります。僕は……」
だが、玉砕作戦に打って出ようにも、友愛の姿はどこにもなかった。
ちょっと前まで自分が立っていた辺りで、応は立ち尽くした。
ガチガチに強張っていた肩が、ストンと落ちる。
応がそこでつぶやいたひと言は、おそらく本音であったろう。
「よかった……いなくて」
すぐ足下まで忍び寄っていた虎徹も同意するように、おわあ、と鳴いた。
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