第26話 少年の甘い恋の夢が無残にも弾ける

 そのときだった。

 部屋の隅でその場のなりゆきをじっと見ていた虎徹が、急に耳を立てた。

 畳の上から、土間へ音もなく飛び降りる。

 やがて家の外へ、ととと、と出ていくなり、おわあ、と鳴いた。

 その猫を、あっち行きや、と邪険に追い払う者がいる。

 背はすらりと高いが、上った太陽を背にしているので、顔だちまではいいかどうかわからない。

 身なりの良しあしなど、そもそも猫には縁がない。

 どこかで聞いた声だったが、昨日からゴタゴタあったので、猫はおろか人間でも、思い出すことは難しかろう。

 だが、その口汚い悪態のつきかたには、どこか癖があった。

 無理に人を見下すことで、何とか自信を保っているような、そんな若者である。

「愛想のない猫やな……家がボロいと猫の根性まで曲がるんか」

 猫でなくても、間違いなく感情を逆撫でするような言葉の羅列であった。

 相手から手痛い反撃を食らったことがない者がよく見せる、横柄な態度である。

 もちろん、それを徹が聞きとがめないはずがなかった。

 ボロ家の中から、カランカランとけたたましい下駄の音がする。

 下駄をつっかけた徹が、ものすごい勢いで駆け出してきたのだ。

 頭上に掲げていた拳を垂直に振り下ろし、無礼な訪問者の頭を、脳天からいきなり小突くなり言った。

「おう、朝っぱらからご挨拶じゃあねえか、どこのお坊ちゃんだね」

 徹の拳はよほど痛かったのか、しばらくは返事もなかった。

 やがて、頭をさすりながらぶつくさ言いだす。

「おっさんやないわい、武智のおっちゃんとトモミが来てるやろ」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、徹のゲンコツが再び、よく髪のセットされた頭を軽く撫でた。

「呼び捨てにすんじゃねえ、俺の倅のナニを」

 若者の身体が、立ったまま左右に何度も揺れる。

 そこへ、いきなりそういうことにされた友愛が、エプロン姿で駆け出してきた。

「マサル! 何でここにおんの!」

 これが豪傑のケツと書いてマサルと読む、あの電話の主であった。

 若者が、ふらつく頭を押さえながら、乱れた服装を整える。

 この街にはあまりにも場違いな、すらっと背の高い、知性と教養と金のありそうな若者だった。

 だが、その端整な顔はぴくりと引きつった。

 友愛をちらりと眺めるなり、遠い目で問い詰めにかかる。

「なんやその婆臭い服は……まさかお前コイツとゆうべ一緒やったんやないやろな」

 コイツ呼ばわりされたのは、後を追ってきた応である。

 その隣に、友愛はこれ見よがしに寄り添って立つ。

 並んだふたりは何十年も連れ添った夫婦のように、妙に所帯臭かった。

 友愛が着ている昨日のおばちゃんの服のせいだろう。

 徹はそれを眺めて、愉快そうに笑った。

 傑に対しては意味深な言葉で、いやらしく口を歪めながら返事する。

「一緒もナニも、2人でしっぽりと……」

 さすがの友愛も顔を真っ赤にして、その場に立ち尽くした。

 かと思うと、呆然としたままの応にエプロンを押し付けながら叫ぶ。

「おっちゃん、ちょっと外してんか! うち、コイツに大事な話があんねん!」

 眦も鋭く、震える身体は頭のてっぺんから爪先まで、怒りに燃えていた。

 その勢いに気おされて、さしもの徹もすごすごと、家の中へと引き下がる。

 訳も分からないまま、応はその場の雰囲気に取り残されてしまっていた。

 意を決したように、おずおずと口を挟む。

「あの、僕は……」

 友愛は、いかにも面倒臭いという顔つきで応を見つめた。

 応から身体を離すと、数歩離れたところから、幼い子どもを諭すような口調でたしなめる。

「あのなあ、他の男には聞いていらん話いうんが、女にはあるんや」

 応の表情が凍ったかと思うと、身体がすくみ上がった。

 傑と書いてマサルと読む若者が、冷ややかな一瞥を残して、応の目の前から歩み去る。

 それに追いすがった友愛は、傑の傍らに寄り添うようにして、その場を離れてゆく。 

 文字通り、応はその場に取り残されて、力なく立ち尽くした。

 その足元から凄まじい勢いで駆け出したのは、猫の虎徹である。

 あっという間に友愛と徹が肩を並べて歩くのに追いつくと、足音もなく、その後をついていく。

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