第24話 雨上がりの朝の、猫たちの議論
さて。
夜が明けると、雨はすっかり上がっていた。
猫が目を覚ますと、建付けの悪いボロ家のあちこちから、すきま風が吹き込んでくる。
その中に、遠くから聞こえてくる別の猫の声があった。
言わずと知れた、虎猫の孫六である。
「えらい目に遭うたなあ」
他人事のように言われると、虎徹も文句を言わないではいられない。
「じゃあ、助けてくれてもよさそうなもんじゃあねえか」
やはり、夕べ聞こえた猫の声は、孫六のものであった。
猫同士が交わす「幽世」の会話を、あの茶碗が怨念と共に運んできた嵐が遮ったのである。
これで近いところにいれば、多少の邪魔が入っても声は交わせるし、お互いの姿を見ることもできる。
だが、孫六は大阪にいる。どうすることもできない。
さらに、その助けが期待できない理由はまだあった。
文句への不満は、むしろそっちから来ている。
「なに言うてんねん、ワシらは人間がどないな目に遭っても手え出さんことになっとるやないかい」
いわゆる「禍事」すなわち人の欲望、煩悩は、ところも変わらず、時を経ても変わることがない。
それを唐鼓の街に送り込むのが、猫の役目である。
だが、「禍事」が人間の感情によるものである以上、それを抱えた人や物を移動運んだり浄化したりするのは、人間に任せなければならなかった。
そんなことは、虎徹にも分かっている。
「人間の面倒ごとを片づけてやれって言ってるわけじゃねえ」
孫六は呆れたように言った。
「当たり前や。そないなことしたら、人間の厄介ごと全部、神頼みやのうて猫頼みになってまうやないかい」
猫としても、そんなものの面倒などいちいち見てはいられない。
そうはいうものの、目の前で罪もない人間に危険が迫っているのを、放っておけばいいとも思えない。
特に、夕べの影などはそうだ。少なくとも、本人たちの責任ではない。
「応くんと友愛ちゃんがアレに襲われるの、黙って見てろってえのか」
猫たちの言う「アレ」すなわち「禍事」のうち、特に性質の悪いのが、情欲というヤツである。
昔話の蛇や五通にしても、別段、蛇に非があるわけではなく、馬や亀が悪いわけでもない。なぜなら、それらはあらゆる人の心の奥底で蠢く情欲が、畜生の姿を取ったものだからだ。
夕べ、友愛への夜這いに現れた影も、その類といってよい。
いずれにせよ、危ないところであった。
「そうならへんように、徹と井光がおるんやないかい」
かつて、徹と井光の妻を襲ったのも、この「禍事」の化身だったのであろう。
もっとも、これは男に限ったことではないので、少年に害が及ぶこともある。
だから、虎徹も応が危機にさらされれば、知らん顔を決め込むことがどうしてもできないのある。
虎徹は、更に別のことにこだわった。
「しかしな、アレが露骨にああいう形で出てくるってえことは、相当なもんじゃねえのか、あの茶碗の怨念」
茶碗に込められた怨念は、人の情欲までも引き寄せるということだ。
孫六も、少し的外れではあったが、それには同意した。
「徹と井光の嫁さんのときは、どっちもええ女やったみたいやからなあ」
情欲は、放っておいても形をとって人を襲うことがあるということだ。。
ましてや、怨念のこもった茶碗のそばにいることは、危険この上ない。
「だからな、その近くにいた応くんも友愛ちゃんも、あの影の餌食になってたかもしれねえんだよ」
虎徹は、くどくしつこく説き伏せる。
ようやくのことで孫六も、すこし考え込みはじめた。
「それは……あんまり想像したないなあ」
もっとも昨夜は、応も友愛も情欲の影に組み敷かれることはなかった。
年頃の娘と純情な少年は、それぞれの父親に守られて、すでに静かな寝息を立てていたからである。
だが、いつまでもそれで安全とは言い切れない。
虎徹は、更なるダメ押しをした。
「襲われた時には遅えんだよ」
それでも、孫六は慎重だった。
単純なひと言で、ぼそりと反論する。
「昼間は、その影、出えへんのと違うか?」
そういう問題ではなかった。
虎徹は、いつになくムキになる。
「茶碗の怨念が、他の煩悩まで引っ張ってきたんだ。さっさと封じねえと、他の人間まで巻き込んで、とんでもねえことになるぞ」
その剣幕に、孫六はたじろいだようだった。
抑揚のない声で、しぶしぶ承諾する。
「分かった、分かった。何かあったら、手え貸すわ」
そこで、布団の中から応がゆっくりと身体を起こす。
おはよう、と虎徹に笑いかけると、立ち上がって台所へ向かった。
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