第6話 純真な少年が色気づいてしまう、その瞬間
やがて、応はおずおずと口を開いた。
「あの……どなたかお探しでしょうか?」
だが、この親子は、少年の願ってもない申し出を全く聞いてはいなかった。
父親などは、急に身震いしたりする。
「せやけど、ゾクっとするがな、この街」
籠の中の茶碗が秘めた怨念を、それとなしに感じたのだろう。
気の小さい割に、勘の鋭い男であった。
その一方で、友愛の物言いはあまりに冷ややか過ぎた。
「まだ5月の連休やで。無理してこないなとこ来えへんでもよかったんちゃうか」
この友愛という少女、顔と体つきは年頃の美少女かもしれないが、到底、人の娘とは思えない。
もっとも、日差しを浴びていると、身体が熱くなってくる季節である。
だが、父親は気味悪そうにつぶやく。
「何ぞ憑りついてるんやないかいな、ここ」
その通りだった。
これも一種の霊感と言おうか。
太古の昔から、人の恨みつらみを封じてきたのがこの唐鼓の街である。
ここには心の傷を抱えた人だけでなく、その魂そのものが物の形で引き寄せられてくることもあるのだ。
それは凍えた魂とも言えよう。
人の心の温かさから取り残された、あるいはそれが信じられなくなった人の心である。
娘は娘で、父親に向かって冷え切った言葉を放った。
「ごまかさんといて、適当なこと言うてからに」
「お前それでも娘かいな」
言い返す父親が、娘を信じられなくなったとしても誰が責められようか。
それはそれとして。
冷え切った人の心が、他の人の身体に寒気を起こさせるのだとしても、不思議はあるまい。
ただ、この娘は、そんなことなど知る由もない。
神や仏が聞いたらバチが当たるようなことを、素っ気なく言い放つ。
「大阪帰ったらお祓いしてもおたらええやん」
帰るまでもない。
この街に引かれてやってきた茶碗の怨念を祓うために、この街はある。
それを告げようとするかのように、友愛の足下にうずくまっていた灰色猫が鳴いた。
その、にゃあという声が聞こえたのか、友愛が短いスカートの裾を押さえた。
「ちょっと! この猫どこ見てんのん!」
非難がましい目で、足下の猫を睨みつける。
断っておくが、何百年生きていようと、猫は猫である。
人間の小娘の脚や下着に気を取られるほど落ちぶれてはいない。
そんなわけで、猫には年頃の美少女を気遣う義理もデリカシーも必要なかった。
動きもしない猫から逃れるようにして、友愛は傍らの少年の後ろに隠れる。
父親には捨て台詞を投げつけた。
「お母ちゃんに言うたるから、お父ちゃんの言うことセクハラやて」
たちまち父親は小さくなる。
だが、トドメのひと言を放ちながら、友愛の目は別の方向を向いていた。
困ったような顔で見つめているのは、親子喧嘩を前に呆然としている少年である。
この応という少年、猫の真上に何があるか、知らなかったわけではないらしい。
その背中に身体をぴったりとつけて、胸の豊かな美少女は、少年の耳元に甘ったれた声で囁いた。
「何とかしてんか、このスケベ猫」
たいへんな言われようである。
猫にしてみれば、災難もいいところであった。
だが、この石根応クンも世間並みには純真な少年である。
言わぬが花とトボけてはいても、すぐ傍にいる美少女に目で懇願されては、知らぬ顔もできまい。
応は今さっき気づいたという顔で、猫を持ち上げた。
身体をだらんと伸ばした灰色猫だったが、鼻の辺りから腹にかけては白い。
片腕に抱えたところで、応は猫のぴんと立った耳に、少女への無礼をたしなめるかのような声で囁いた。
「虎徹……」
猫の名前が呼ばれたところで、友愛のカバンの中から、これもまたベタな六甲おろしが高々と鳴り響いた。
いわゆる大阪人的にお約束の着信音である。
スマホか何かに電話がかかってきたのであろう。
そのけたたましさに、猫は慌てて地面に飛び降りた。
少年もその手を引っ込めると、身体をすくめる。
それと同時に、折からの西風で晴れた空がうっすらと曇りはじめた。
どことなく、湿っぽい風が吹いてくる。
もっとも、遠い六甲山からの風が、この関東の片隅にまで届いたわけでもあるまい。
その風は、どちらかといえば、この親子が現れたときのものに近い臭いがした。
さらに、嵐の前などは、こんな臭いがすることがある。
降りはじめの夏の雨がアスファルトを濡らしはじめたときの、あのムッとする……。
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