ある日突然、私は息子を見れなくなった。

Y U K A

日常。 幸せとは

第一章


私はいい母じゃないと何度思った事か、 息子の顔を見るたびにそう思って悲しくなった。

 朝は子どもより早く起きて、三食ご飯を作って公園に遊びに行き、お風呂に入れて寝かしつける。そんな当たり前な事が私はできない。いつからこうなってしまったのか。これはきっと病のせいだ、と信じたい。

 当たり前に息子より早く起きて、少しでも動けば自然と気付き、時々息をしてるのか確認し、毎日一生懸命に子育てをしていた、まだ六ヶ月の頃までは。

 

 

   

   

 

 

 

 

 

   2017年4月

 

 私は新卒で入社した地元の会社を退社し、札幌に引っ越して彼との同棲を始めた。お互い仕事に明け暮れ、仕事終わりには一緒に飲みに行き、休みの日は夕方までのんびりしてまた夜は飲みに行く。行きつけのバル、居酒屋、ラーメン屋もあり、私なりに順風満帆な日々を過ごしていたに違いない。

 

 

 

 

   2017年11月

   

 ある日、自分の体調の変化に気付き緊張しながらも産婦人科に向かった。ドキドキしながらも人生初めての検査台にまたがり、先生の言葉を待つ。「これ見える?」と画面を指差して言われ、私はまじまじとそこを見た。それから先生は説明を始めた。私は、その画面に映っている小さな小さな影の様なものが私の赤ちゃんなんだと気づいた時、ぽろっと涙が溢れ落ちたのは今でも忘れず覚えている。それから俗に言う楽しいマタニティーライフというものが始まるのだが、誰もが楽しいそれになる訳ではないようだ。授かったと知ったその日から数週間後、悪阻が始まった。私の場合は吐きづわりだった。食べても食べても吐き気が襲いトイレに駆け込む。それが2、3ヶ月続いたかな。しまいには、出るタイミングを失い座り込み、壁にもたれ掛かると同時にいつまで続くか分からない辛さにふと涙がこぼれた日もあった。






  

   2018年3月


 月日が経ち、悪阻も落ち着きはじめお腹の膨らみも目立つようになってくると、母としての実感が湧いてくるものだ。しかも今度は、マイナートラブルというものが付き物になってくるから大変だ。お腹の大きさだけでも不自由な事は多々あるが、張りが1番辛かった気がする。だんだん慣れて対応できる様になってくるのだが、この時期はなかなか身動きが出来なくなる。ある時に病院から処方された張り止めを飲んだ夜、私はパニック障害を起こした。人生で初めての経験にその時はとても混乱していて、ただただ意識が遠のき足のガクガクが止まらず、このまま死ぬのではないかとまで思う程であった。後で分かったが、張り止めの薬は副作用がある様だ。それから張りがあっても休み休み行動するように心掛け、臨月まで残すは1週間となった矢先の朝だった。

 

 

 

 

 

   2018年5月

 

 出産予定日のちょうど1ヶ月前の明朝6時、異変に気付きトイレに起きると今までとは違うおりものに一瞬で戸惑いすぐに私は携帯で調べた。すると、前期破水だと分かりさらに焦ったが病院に電話をし準備をして向かう事に。通院してる病院に到着しすぐに診てもらった。「もう産まれるよ!」と先生が言った。私は嘘でしょ?と思ったが、考える余地もなく既に私の陣痛はピークを迎えようとしていた。しかし、そこの病院は小さな病院であった為、NICUのある大きな病院に急遽移る事になったのだ。救急車はこれでもかとガタガタ揺れていた。その時私は痛みのピークに耐え忍んでいた為、後で聞いた話だがその揺れがお産を進めた理由であった。バタバタと先生方が動きながら、私は分娩台の上で検査と同時進行でお産を勧める事となった。私は痛みといきみ逃しに必死でひたすらにタオルを握りしめていたと思う。やっと一通り検査が終わった頃には、子宮口がもう全開でいつでも産める状態にあった。何度も何度も先生の掛け声に合わしながらいきみ、必死すぎて呼吸を忘れがちになる度にしっかり呼吸してね〜赤ちゃんに届かないよ〜と言われまた必死になる。

 そして、あの破水から4時間程で誕生。2506グラムの男の子。その後NICUに入った為、すぐに抱いてあげる事はできなかったのだが、私自身描いていた産後の達成感とやらとは裏腹に後陣痛の痛さに悶えてたのを覚えている。それから病室に移り、夕方に息子に会える事になった。念願の対面、それは不思議な気持ちだった。この子が私のお腹にいた子で私が母なのね、と実感するまでは少しだけ時間がかかった気がする。それから、順調に母子同室も始まり病院の中でだが息子との生活が始まった。2時間おきの授乳は、産後の身体にはなかなか辛いものだった。しかもこれも思ってた通りにはいかないのだから。胸はパンパンに膨れるというのにミルクは思うように出ないし、息子もまだ上手く飲めないので苦戦した。息子の成長に合わせてミルクとの混合で頑張るが、飲ませられなくても胸はカチカチになり痛くて寝れず、凍らせたウィダーインゼリーをずっと胸にあてて冷やしていたのを覚えている。そんなこんなで入院生活も終わったのだが、息子は早くに産まれた事もあり一緒に退院する事は出来なかった。それからは、出来るだけ毎日自分で絞ったミルクを保存し病院に持っていき哺乳瓶で飲ましてあげたりを繰り返しながら退院日を待ち望んだ。

 

 

 

 

 

   2018年10月

   

 少し肌寒くなってきた紅葉の季節、息子は順調に育ち早くも5ヶ月になっていた。だんだんと自我が芽生えだし泣く事も増えてきた。私の主人は飲食の仕事に就いている為、帰りは遅く0時を回る事も少なくない。けれど、私なりに私のやり方で子育てを出来るため大変ではあったが苦ではなかった。毎日ではないが、気分転換にお散歩がてらウィンドーショッピングをしたり、主人のお店に遊びに行ったりして息子と一緒に出掛けたりもした。朝から晩まで1人で見ながらお風呂も入れて寝かしつけて、夜中は何度も起きるので毎日寝不足ではあったがそれなりにやってこれた。というより、ただただ必死なだけだったのだと思う。 

 時々、パパに息子を任せて行きつけの美容室に行くのが私の至福の時間で、息をする間も惜しむ程おしゃべりに没頭するのが私のストレス発散になっていた。産前との生活と比べると、必然的に変わりざる負えない事ばかりで、夫婦でぶつかる事も増えた。旦那の帰りが遅いのは重々承知だが、何の連絡もなしに酔っ払って帰ってきたりはさすがの私もキレてしまった。しまいには私の話を聞かずに寝始めた時には、深夜に家を飛び出した時もあった。けれども、旦那とは良く話す方ではあったし今日はこんな事してこんな事あったよと私は日中息子以外の誰とも話していなかった為か止めどなく話し始めるのだ。

 



 

   2018年11月

 

 息子は6ヶ月になり、よく笑うようになった。それと同時に私が離れれば泣き抱っこから下ろせば泣くという、いわば背中スイッチが発動していたので1日中抱っこが欠かせなくなってきた。そうなるとご飯を食べる時間もなくなっていき、レーズンバターパンを片手に頬張ることも増えていった。息抜きにカフェオレを飲もうとレンジで温め始めるのだがタイミング良く息子は泣き始め私を呼ぶので、レンジの中にはいつの間にか冷えて放置されたカフェオレがすぐに気付かれる訳もなくいつもそこに忘れられていたのだ。

 トイレに行くタイミングはいつも難しい。タイミングばかりを見てるとなかなか行けず息子は泣き続けるので、なかなかの戦いだ。急ぎすぎて、何度ふたの上に誤って座ってしまった事か数えきれなくて笑ってしまう。

 2人きりで出掛けると、買い物は中々進まない。歩いて10分程の所にあるスーパーに良く買い物に行くが、終始ベビーカーを揺らすのはお決まりの光景だ。しかしタイミング悪くぐずるのもお決まりで、たかがスーパーに買い物に行くだけなのになかなかの戦いだったなと今でも思い返すと懐かしい。

 頭を洗うのは、秒で終わる。割と元々お風呂はゆっくり入る方ではあったが、息子と2人だとそうはいかない。お風呂のドアを少し開けた所に息子を寝かし、急かされながら私は自分の体を洗う。だいたい全部を洗いきる前にぐずり出すので、頭しか洗えない事も多々あった。あきらめ息子を抱きかかえ膝の上に寝かせ頭から洗い始める。すると息子は何秒も経たずと目をつむり気持ちよく眠り始めるのだ。洗い終えた息子と一緒に湯船に浸かるのだが、息子はまだすやすやと眠っている。その姿がなんとも愛おしくて私はずっと見てられた。

 お風呂上がりが1番の戦いかもしれない。それまで寝ていた息子も保湿の為やむを得ずクリームを塗ろうとすればすぐに起きて泣いてしまう。速やかに全身塗り終え寝室のベッドの上に移動して、用意していた肌着に息子の腕と足を通してパジャマを着せる。そして息子の頭を枕の上に乗せ体勢を整えてから、すかさず用意していたミルクを哺乳瓶で飲ましてあげる。この瞬間まで息子は、いわゆるギャン泣きなのだ。息子は哺乳瓶で勢いよくミルクを飲み始めるが、次第に目が閉じて夢の中へいく事もしばしば。私の1日の任務はそこで初めて終わったとも言えるだろう。私は、眠りについた息子の隣で一緒に横になりその姿を眺め、息子と自分に対してもお疲れさま、と呟くのが日課と言っても過言ではない。そうしているうちに寝落ちしてしまった事もあったと思うが、パパが帰宅すると私は息をするのも忘れる程にひたすらに話していたと思う。今思えば、きっとこの時から既に物語の本題は始まっていたのだと思うのであった。





 同じ11月の話だった。私は帰宅した旦那との食事中に初めて違和感を覚えた。何故かその日は食事が喉を通らなかった、というよりも何か息苦しい感じがしたのだけれどもその時は一過性のものだと思った。しかし次の日もその次の日も食事をする度に喉の違和感を感じていた為、旦那の仕事の休憩時間に息子を見てもらうことにして私は呼吸器内科の病院に向かった。その時の診察では、症状的に逆流性食道炎で詳しい検査をするのでその日はその予約をして帰宅し、食道炎の薬で様子をみることになった。症状は変わらず、食欲は日に日に落ちていった。それから数日後、私はだんだんと息子の泣き声がやけに耳に残るようになり息子が昼寝をしてるのにも関わらず、すぐに起きてしまうのではないかと思うと常に気を張っていたのか気が休まらなかった。今思えばこの時からか、私の心は疲れ始めてたのかもしれない。しだいに息子は抱っこをしていても何をしても泣き止む事は減り気付けば1日中泣いていたんじゃないかと思うほどであった。そして私は、その泣き止まぬ声に1人とても悩み苦しんでいたのだ。

 予定していた検査まであと1週間程だという頃に私は急に過呼吸に襲われた。またパニック障害だ。その瞬間、私は前の恐怖を思い出してしまいとても正常じゃいられなかった。いてもたってもいられず、すぐに旦那に病院を調べてもらったがあいにくの日曜日、開いてる病院は遠かったがタクシーで向かうことにした。30分程して着いたが、病院内はとても混んでおり順番を待つことになった。診察が終わり胃カメラも急遽したのだが、特に食道にも異常は無かったようだ。ストレス性のものだという事で薬を処方してもらいまた様子を見ることになった。これで良くなるであろうとホッとしたのも束の間、薬の副作用で身体はだるくなるばかりであった。それでも飲まなければ良くはならないと思い、無くなれば薬を貰いにまた地下鉄に乗り病院に向かった。向かう最中の地下鉄の中、私はなんとも言えぬ恐怖感と共にまた呼吸が浅くなる感覚を覚えた。次の駅で降りようと何度思ったことか、その時の私は既にそんな症状も現れるようになっていた。

 ある日、私の父親とおばあちゃんが札幌に来るとの事で息子も連れて一緒に買い物をする事にした。その日は朝からバタバタしていて朝ごはんも食べれずに家にあったスムージーだけを飲んで家を出た。息子の授乳時間の合間に急いで買い物を済ませようとせかせかとショッピングモールの中を歩いていた。それでも息子はぐずりがちで、買い物も思うようにはいかないものだ。1階の百均で買い物をしている最中、急に私は気持ち悪さに襲われた。いてもたってもいられず、息子をおばあちゃんに頼み私は少し遠いトイレに走った。個室に入るなりその気持ち悪さを吐き出そうとするが状態はあまり良くならず、息子が気になってしまい急いで戻った。それからいくら座って休んでも一向に良くはならなかった為、帰ろうと試みたのだがあまりの体調の悪さに歩くのもやっとで駐車場に着いたのにも関わらずいざ乗ろうとすると気持ち悪さが勝ちなかなか帰る事ができずに、その日は結局主人に電話で助けを求め迎えに来てもらいなんとか帰宅することができたのだ。それからというもの私の体調は万全ではなかったが、また変わらぬ日常に戻ってきた。 




 

   

   第二章

   

 がむしゃらに毎日を過ごしていたが、それなりに笑っていたし幸せだった。

 けれど元から余裕なんてなんにもなかったのかもしれない。だが、誰も頼らず自分の力でこの子を育てたかったんだ。それはただの強がりではない、自分が生きる意味、自分の存在価値だった。

 息子が7ヶ月の頃、私は私のどこかの糸が切れかけ始めてるかのように、徐々に壊れていった。予兆はどこかにあったのかもしれない。けど誰もそれに気づく事なんてなく、私は壊れていったのだ。


 ある日突然、私は息子を見れなくなった。


 息子の泣き声を聞くことさえ、苦痛になってしまったのだ。何故そうなったのか自分でも分からず、すごくすごく毎日自分を責め続けた。なのに一向に答えは出ず、苦しくなるばかりであった。




 

 

 あれから、そう月日は経っていない。それなのにどうしてだか私は変わってしまったような気がする。

 その日、私はいつも通り朝7時には起き息子に朝一番のミルクをあげた。それから、パパは仕事に行き息子と2人きりになる。プレイジムで遊んでくれてる間に家事を進める。しかしすぐに呼び出しをくらうのはいつもの事だ。最近は、泣いてばっかりだな。離れればすぐに泣いてしまうので、お風呂掃除もトイレに行くのも簡単な事ではなくなった。眠いのかな?て思ったら、軽くスクワットをしながらの寝かしつけが定番になってきた。けれどなかなか寝ないんだ。どうしてだろう。ずっと機嫌が悪い。ミルクも飲んだ、オムツも変えた。ひたすら抱っこをしてあやし続けた。場所を色々変えてみた。なかなか寝てくれないし、今日はずっとこの調子だ。疲れてきた。理由が分からないってこんなにも大変なんだ。

 だんだんと、私の頭の中がおかしくなっていく感じがした。その日は家中をひたすらにウロウロした。鏡が好きだから、何度も洗面所に行った。外の景色を見せようと、寝室の窓を開けて見せた。そしてひたすら話しかけた。けれど、分からなかった。泣いてる理由が分からなかったんだ。しだいに、泣き声を聞いているうちに頭が狂いそうになる感覚が私を襲った。お願いだから、泣き止んで。気付いたら私はそう呟いてた。なんだか凄く責められてる気がした。違うのに、違うのにね。それでも平然を保とうと、ずっと話しかけた。洗面所で息子の顔と私の顔みながら、精一杯に笑って。けどね、私の精神は限界だったみたい。もしかしたら、叫んでしまったかもしれない。お願いだから、静かにして!て。このままだとやばい気がして私は旦那に連絡した。けれど状況はすぐに分かってもらえる訳もすぐに仕事を抜け出す事もできる訳がなく、この時間はさらに続いたのだ。誰も悪くない、誰も悪くないんだ。なにが自分をそうさせているのかも分からなく、ただただその時は苦しんだのを覚えている。それからパパが帰ってくるまでの時間はとてもとても長く感じた。

 

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