珍兵器歓談

珍兵器歓談・『閃電改』顛末記

 完全な妄想にて、リアリティはかけらもありませんのでご承知おきを(汗)。


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 進駐軍が、陸軍各務ヶ原飛行場に残る機体の確認をすると言ってきたのは、終戦から三週ほど経った頃だったと記憶している。

 設計三課の課長はそれぞれ提出用の資料復旧に忙殺されていたので――結構な量が玉音放送後の混乱で焼かれてしまった――第三設計課の末席に名を連ねていた私が行くことになった。


 ものものしい一団を想像していたが、そこに現れたのは赤毛の白人士官が一人(ロバート・マクファーソン大尉と名乗った)の他は、日系人の通訳と、護衛の米兵二人。治安に関してはかなり安心していると見えた。


 格納庫に並べられた機体は、既にプロペラを外され、燃料も潤滑油も抜かれていた。

 私と、川崎から来た技師は、それらの説明をして回った。

 中には、部品が盗まれたり壊されたり、あるいは焼かれたりした機体もあり、敗戦の後の我が国と軍の混乱を物語る証拠を目の当たりにして、非常に恥ずかしい思いをしたものだった。


 驚いたのは、この大尉がかなり日本語が流暢で、複雑な話や技術的な話以外は通訳が必要ない事だった。もっとも、この通訳がどのくらいそういう内容を理解していたか、いささか怪しい所はあったが。


 説明が大半終わった頃、大尉が格納庫の隅をペンで指した。

 「アレハ?」

 そこに転がる残骸を見て、私は「ああ」と呻いてしまった。横にいる川崎の技師もある程度事情を知っているらしく、気の毒そうな表情になったのを私は横目で見た。

 それは三菱の、そしてとりわけて私の属する第三設計課にとって、因縁の深い機体だった。

 十七試局地戦闘機、或いは試製『閃電』。

 海軍の試作機だが、名航(三菱重工・名古屋航空機製作所)から近いため、各務ヶ原で試験飛行を行なっていた。

「ルーク、デスカ?」

 大尉は資料をめくりながら確認した。

 こちらは、試作機でありながら既に米軍が仮称を付けていたと知り、情報力の差を思い知らされた。しかし大尉は首を捻り、

「シリョウト、カタチガ、ダイブンチガイマスネ」

 と聞いてきた。

 そこまではあちらさんも知らなかったかと、私はわずかに留飲を下げた。

 この機体は、当初の『閃電』とは大きく姿を変えていた。それ故に、仮にではあるが『閃電改』と読ばれていたのだった。


 

 あれは昭和十九年六月。

 第三設計課の課長である佐野栄太郎技師が招集した会議に私も参加した。子供のように小柄ながらエネルギッシュな佐野技師は、開口一番黒板を叩いた。

「このままでは、『閃電』は開発中止になる!」


 『閃電』は、昭和十七年、海軍より三菱に試作指示が出された局地戦闘機である。

 最高速度500ノット(時速750km)という日本機としては破格の高速性能を実現するため、佐野技師は推進双胴型という異例の形態を選択した。

 だが設計を具体化する中で変更が相次ぎ、とりわけ発動機の冷却は、推進型の前例がないだけに苦闘した。

 発動機ハ四三の開発も遅れ、試作指示から二年たっても一号機の機体が完成に至らない状況で、その将来性に不安の声も出始めていた。

 その間に、空技廠の鶴野正敬技術大尉によるエンテ翼型局地戦闘機、十八試局地戦闘機『震電』が、実験用モーターグライダーによる飛行を経て実機の製作へと進んでいた。

 速度、武装共に閃電を上回る震電の試作進行。

 さらに海軍の対B-29迎撃に関する期待は、ドイツのロケット戦闘機Me-163に移り始めていた。


 この頃から、中国の成都よりB-29が九州や満州に爆撃を加え始めており、その高性能に日本軍機は苦戦を強いられている。

 マリアナ諸島も陥落。やがてそこを根拠地にB-29が日本全土に爆撃を開始するであろうことも予想されている。

 彼に大打撃を与えうる高性能の迎撃機が、一刻も早く必要とされている中、閃電は脱落しようとしているのだ。

「だから、このような案を考えてみた」

 佐野が黒板に張り出した略図を見て、一同は呻き声を上げた。



「ルークヲ、エンテタイプニ、ヘンコウシタノデスカ?」

「そうです」

 私は彼からノートを借りてラフスケッチを書き込んだ。

 尾翼を支える双ブームを、主脚引込部と垂直尾翼取り付け部の間でカットし短縮。

 水平尾翼は垂直尾翼上部から取り外し、左右に分割して機首先端に取り付けた。

  取り付け角は0.5度の上向きとし、水平飛行時にも主翼の約10パーセントの揚力を発生するものとした。


 初飛行は、昭和二十年四月十五日。

 海軍の首脳陣の詰めかけたその前で滑走を始めた『閃電改』だったが、機首を引き起こし過ぎてプロペラが地面に接触。機体は半回転して停止し、プロペラも先端が曲がってしまう。

 これには将来、垂直尾翼を第一案の形に戻り、さらに下方に延長して小型の車輪を追加する事、また離陸するまでは引き起こし角度を機械的に制限する事が予定されたが、当面は、パイロットに気を付けてもらう事となった。


 プロペラを交換し、次の飛行は四月二八日に。

 今度は無事離陸に成功。脚を出したまま飛行場周辺を三周し、着陸。しかし着地時に前脚が折れ、機首が路面に叩きつけられた。

 エンテ化で重量が前方に移動。前脚もそれに対応するために強化する予定だったが、飛行を急ぐため一号機はそのままとし、着陸時にはこれもパイロットが慎重に接地する事としていたが、それでも前脚はもたなかった。

 パイロットは額を計器盤に叩きつけたものの軽傷。機体の損傷も大きくなかった。機体は格納庫に移され、修理が始まったのだが。


「数日後に開発中止命令が出ました」

「ナゼ?」

「やはり、震電に負けた、という事ですね」


 『震電』設計者、鶴野正敬大尉は、空技廠の技術者にありがちな凝り過ぎを廃し、迅速に試作を進めていた。前脚はやはり試作の偵察機『景雲』から、主脚は艦上偵察機『彩雲』から流用。

 発動機ハ四三の推進式用延長軸型は、閃電のために開発されたものがそのまま使用できた。

 戦局が急速に悪化する中、『震電』の試作が順調に進んでいた以上、エンテ型機を二種類開発する必要も薄れていたためだった。


 その後、『閃電』初飛行時の失敗を聞いた『震電』の設計陣は、垂直尾翼の下端に小型尾輪を追加。七月八日に初飛行を無事成功させたのだった。


「閃電の設計には、二年以上の歳月がつぎ込まれていました。推進式の星型発動機をどう冷却するか、その最適解は震電ではなく閃電だったと、私は、私達は今でも思っています」

 冷却空気取り入れ口を左右に張り出した『震電』より、胴回りに数か所の取り入れ口を開けた『閃電改』の方が、高速を発揮できた筈だ。

「実際には、ハ四三発動機が生産できなかったのですから、『閃電』にも『震電』にも実戦投入できる可能性は無かったのですが、今でも閃電改に実力を発揮させてあげたかったと……」

 私はそこで慌てて口を閉じた。

 『閃電改』が実力を発揮する時とは、米軍のB-29爆撃機を多数撃墜する事、言い換えれば多くの米兵を殺す事だったからだ。

 だが大尉は口の端を上げ、楽しそうに答えてくれた。

「エンジニアトハ、ソウイウモノデス」

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