試験空母「さんないまるやま」・ナルミの世界

 浦賀水道を抜けると、長澤艦長は全身の力を抜き、席に体を預けた。

「お見事でした」

 馬緤は左舷側の監視から視線を外し、彼女を労う。

 出航までの操艦は艦長が指揮を執る。それを終えた今、当面は航海長が操舵長に指示を出す事になる。

「ありがとう」

 彼女は帽子を脱ぎ、額の汗をハンカチで拭った。

 実際、彼女の指示は見事だった。ただでさえ交通量の多い浦賀水道、さらにデモ隊のボートが水上警察の制止を振り切って近づこうとするのを、巨艦を操って安全な距離を保って抜けたのだから。

「皆の協力のおかげです」

 彼女の静かな声は、ブリッジに穏やかな空気をもたらした。

 とりあえず自分がここにいる必要はしばらくないだろうと、馬緤は小さく咳払いした。

「それでは、艦内を見回ってきます。初航海には迷子も付き物ですし」

「そうですね。よろしくお願いします」

 まただ。あのからかうような目。いや、そうでもなかったか? 自分が気にしすぎていたのだろうか。



 広大な艦内は、ほとんどが無人の状態だ。艦載機用の格納庫、ウェルドックと車両用フロア。VLSも砲熕部も、全て空だ。技本――技術研究本部――からもまだ人は乗り組んでいない。いや、正確には防衛装備庁に組織改編されたのだが、やはり長年馴染んだ技本という言葉をつい使ってしまう。

 今回は最低限運用可能な人員しか乗り込んでいない。さすがにこの状態では、迷子になる者も、「すみません」


 いた。

 女性の、それも女の子、と言いたくなるような細く高い声の方を向くと、企業の作業着姿が通路の角から不安気な顔をのぞかせている。

「何でしょう」

「藤川電機のナルミです。あの、機関室に降りる階段はどちらでしょうか」

「ああ」

 バッテリーの製造会社の技術者か。見た所、新卒くらいだろうか。


 この船の推進動力は、ディーゼルエンジンとリチウムイオンバッテリー(そしてモーター/発電機)を組み合わせている。

 先代の、いや、今だ現役ではあるが、一応先代の試験艦『あすか』も、当初はガスタービンとディーゼルを組み合わせた動力を搭載していた。一通りの試験が終了した後、ガスタービンは下ろされてディーゼルのみの駆動となったのだが。


 この艦の場合、時代に合わせたエコで持続可能な護衛艦、を目指している訳ではない。そんな事を言った防衛大臣も居たのは確かだが。

 実際の目的は、航続距離の延伸と最高速度の更なる向上、その両立を目的とした実験である。また次期潜水艦用の高エネルギー密度バッテリの試験という面もある。


 それにしても、こういう場で名前の方を言うのは社会人としてどうだろうか。まあ、姪っ子なんぞはもっと礼儀知らずだからこれでもマシだろうが。

「すみません。道を聞いて上がってきたんですが、戻ろうとしたら分からなくなってしまって」

「なるほど」

 頭の中にこの近辺の構造を思い浮かべる。車両用フロアの奥に男女用トイレがあったな。そういえば機関室のフロアには男子トイレしかなかった。トイレを出て右に曲がる筈が、左に曲がってしまったのだろう。

「こちらへどうぞ」

「ありがとうございます」

 先導して歩くと、後ろの足音がパタパタと小刻みについてくる。

「あ、失礼。つい速足になってしまって」

 速度を緩めると、彼女が追いついて首を振った。

「いえ。自衛官の方って、皆さんきびきびしておられますね」

「まあ、入隊した日から叩き込まれますから。あ、ここから降りればすぐ機関室です」

「はい、ありがとうございました!」

「まだ慣れないでしょうが、頑張ってください」

 励ますと、

「はい!」

 笑顔で礼をして去って行った。少しぎこちなかった気がしたが、やはり緊張しているのだろう。



 『さんないまるやま』は御蔵島東方沖50マイルに到着し、全力航走試験をおこなった。

 操舵長が両舷半速から全速に切り替えると、体にじんわりと加速が伝わる。

 速力が25ノットを超えようとした時、警報ブザーが艦橋に響いた。

「機関部異常発生。出力4パーセント低下」

 機関長がパネルを読み取って報告しつつ、通信ボタンを押す。

「機関室、現状報告」

『バッテリー三番、四番に温度上昇警告発生。自動制御でバイパスされました。モーター出力7パーセント低下です』

 機関室からの報告。機関長もそうだが、てきぱきと早口ではあっても上ずってはいない。新造艦の初航海にトラブルはままある事だ。致命的なものでない限り慌てる必要もないし、早い段階でトラブルを出しておく事は悪い事ではない。

「メーカーの技師さんは何と言っています?」

 試験長が横から割り込んだ。この船で行われる装備の試験全体を統括する幹部の役職だ。

『はい、ちょっとお待ちください。……話せますか? はい』

 スピーカーを通して横を向いている気配がして、

『それでは、藤川電機のナルミ主任に代わります』

『代わりました。ナルミです。今回のトラブルについて簡単にご説明します』


 聞き覚えのある女性の声。それも、女の子、と言いたくなるような。


 これは、だ。


 馬緤は思わず口元に手をやった。

 たしか名簿にあった主任の名は……鳥海 浩だった。つまり、ナルミは名字で、鳥海と書くのか。名前はヒロ、だろうか。

 主任であれば、少なくとも入社後数年、年のころは30前後か。間違っても新入社員ではない。


『……従いまして、今回の警報は温度センサのみの不具合と考えます。現状バイパスしたままで運航して頂き、帰港後ただちに点検に掛かりたいのですが、いかがでしょうか。詳細は、本日中にミーティングをさせていただければと思います』

「ありがとうございます。 艦長、私もそれで良いと思いますが」

「了承します」

「では、そのようにお願いします」

 通信が切られ、事態は落ち着いた、かに馬緤には思えたのだが。


「副長」

 艦長が身を乗り出してこちらを覗き込んできた。

「は」

「どうかしましたか? いささか挙動が不審ですよ」

 艦橋中から好奇の眼差しが集まり(操舵手はさすがに自制している)、馬緤は観念した。

 正直に事情を説明すると、艦橋に控えめな笑いが起こる。艦長は口元を引き締めていたが、微かな震えは押さえ切れていない。

「ごめんなさい」

 深呼吸して、軽く頭を下げた彼女。

「私たちが子供の頃に見ていた大人に比べて、私たちの世代は些か若く、あるいは幼く見えると思っていましたが、これは全世代的に当てはまる事なのかもしれませんね」

「確かに」

 馬緤は自分と同年代や、少し上の人々を幾人か思い浮かべた。知人も、家族も、テレビなどで見かける芸能人も。

 いずれも、自分が子供の頃なら中年、あるいは初老とされている筈の人々だ。だがある歌手は今も若いころの面影を残して今も歌い続けているし、叔父は35年ぶりに趣味のロックバンドを結成したと聞いた。

 息をついて頭を振った。

「今、謝ってきます」

「そうですね」

 艦長はうなずき、付け加えた。

「謝罪のつもりがセクハラにならないように気を付けてくださいね」

 馬緤はバルサミコ酢を飲まされた人の顔になった。



 謝罪すると、鳥海主任は涙を流すほど笑い転げた。

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