第18話

「……そろそろ来るわね」

 蘭鰍あららぎかじかが、陸の上で苦しそうに身じろぎする大鯰を見ながら言う。今まで、鰍と河の市かわのいちに邪魔され、「心象念」であたりを沼に換える隙を与えられず、いい加減苦しさの極値にあるのだろう。その目が、鰍と河の市を睨み、光った。

 瞬間、硬い地面は消え、あたりは一面の水に変わる。

「甘い!」

 水に落ちる、沈む、そう梅野松蔵は感じ、身を固くした。だが、いつまで経っても水に落ちた感じはない。恐る恐る目を開けると、自分を含め四人とも、一艘の平底の小舟に乗っていた。

「まあ、来るとわかってりゃあ、こんなもんよね」

 どぼん、と、水に沈む大鯰を見ながら、小舟の舳先へさきに立った鰍が言う。

「おっ、ちゃんとかいがありやすな。それじゃあ、ちょいとあたしが漕ぎやしょうかね」

 どこにそんな力があるのか、河の市が細い腕で重そうな櫂を軽々と持ち上げ、ともに据え付けてこぎ始める。リズミカルに、妙に上手に。

「とはいえ、あの主さんなら、こんな木っ端船一発でひっくり返しに来るでしょうけどねぇ」

 まるで、どうという事でもなさそうに鰍が言う。

「え?それはまずいんじゃあ……」

 流石にその言わんとする事を理解して、松蔵が聞く。その言葉が終わらぬうちに、

「あなた、大丈夫です、私が、鎮めて来ます」

 寝巻の帯を解きながら、なずなが言う。

 一瞬、手を伸ばしてなずなを止めようとした松蔵は、だがすぐに全てを理解したように頷き、

「……そうか。わかった、頼む」

 一度浮かせた腰をもう一度船底に下ろし、

「だが、必ず帰ってこい。いいな?」

 まっすぐになずなを見据え、松蔵が言う。

「はい、すぐ、戻ってきます。岸で待っていて下さい」

 纏めていた髪を解きながら、なずなが松蔵に微笑む。解いた帯ごと寝巻をするりと脱ぎ落とすと、小舟の舷側から、とん、と跳んで、ぽちゃり、と、波も立てず綺麗に水に飛び込む。

「……そいじゃあ、あたしらは岸で待つとしやしょうか」

 松蔵となずなのやりとりを見守っていた河の市が、そう言って再び櫂を漕ぎ始めた。


和尚わじょう、分かってたら教えて。なんであの主さんで、あの娘なの?」

 舳先から後ろ向きに座る鰍が、艫で櫂を漕ぐ河の市に聞く。

「ぼんやりした質問ですなあ、言いたい事ぁわかりやすが」

 そう言って笑いながら、河の市が答える。

「そうですなあ、あの主さんは古強者だが、人に化けたり妖術を使ったりはしない、只の年経た大鯰ですな。それが何で娘だけ、奥方さんだけが人に化けるのか、本当のとこはあたしにも分かりやせん。ただ、その奥方さんの思いが強すぎて、自分は幸せでいいのか、このままでいいのか、沼を埋めて、マンション建てて、それが自分で重荷になってたんでしょう、主さんも成仏しきれなくて迷い出てきちまった、そんなとこでしょうな、因果なもんでさ」

「まあ、仇討ちってのはアタシも分かるけどねぇ。でもそっちはカタがついたみたいだし、これで一段落できる、かな?」

「奥方さんが自分で、主さんとけじめつけなさりゃあ。後は、旦那さんが受け止めてやりゃあいい話だが、どうやらそっちは心配なさそうだ、そもそも夫婦仲は悪かねえ、そうでやしょう?」

 河の市が、ニヤリとしながら松蔵を見る。

「旦那さん、大サービスってヤツだ、一つ教えてあげやす。元の祠があった辺りに井戸を掘りなさるといい。そんで、小さな池でもこしらえて、小魚でも放されりゃあ、奥方さんもきっと喜びなさるでしょうや」

「井戸?しかし、あの辺りの水源は……」

 松蔵は思い出していた。沼を埋め、田畑にしたが、高度成長期の終り頃から水源が涸れ始め、それは周りの工場が水を汲み上げすぎたせいだとすぐに分かった。だが、だとしてもその頃は打つ手は何も無く、田畑はやがて休耕田とせざるを得ず、宅地として分譲する他なかった。 独立した小作人達と相談してそう決めた時、それを聞いていたなずなの哀しい目が思い出された。ああ、お互いに言い出す機会がなかったとは言え、もっと早くにお互い、本心を打ち明け合っていたら。愛していたからこそ言えなかったとは言え、現実は変えられなかっただろうが、もっとお互いに深く分かり合えていただろうに……

「涸れてるってんでやしょう?確かに、高度成長期に地下水汲み上げすぎて一度は涸れかけたみたいでやすが、なに、今は法律で地下水はあんまり汲み上げちゃダメだって事で、おかげさんで水は戻ってまさあ」

 河の市が請け合う。鰍も、そこに載っかって、

「大丈夫、和尚は水の専門家だもん、こないだ潜った時に見てきたんでしょ?」

「その通りで。あたしが請け合いやす」

「……あいつは、なずなは、喜ぶだろうか……」

 それでもまだ、踏ん切りを付けきらない松蔵に、河の市が断言する。

「喜ばれるに決まってまさぁ」


 主が追ってくる気配はなく、ただリズミカルに櫂を漕ぐ音だけが湖上を渡る。河の市は、主の供養の石が新しい祠になかった事も伝え、万が一、工事現場になかったら、新しい石を置いて、神職でも呼んで慰霊碑を作り直しなさい、と助言する。それで十分だ、と。

「あとは奥方さんが納得されりゃいいだけだ、と、岸が見えて来やしたな」

 そこは、松蔵の記憶にある、湧き水の泉のほとり、主の石を置いた近くだった。

「……昔のままだ……」

「そりゃそうよ、あなたたちの夢、あなたたちの記憶だもん」

 舳先で立ち上がって、鰍が松蔵に言う。

「さて、じゃあそろそろアタシは退散させてもらうわ」

「あんた達は一体……」

「通りすがりのお節介焼き、よ。じゃあね!」

 言って、鰍は身を縮め、次の瞬間、まだ五メートル程は離れた岸に向かって跳躍する。

 大きく揺れる小舟の縁にあわてて掴まり、松蔵は鰍の行方に向き直る。

 そこには、確かに漆黒のライダースーツを身に纏う少女を追ったはずの視線の先には、彼方の草むらに着地せんとする、栗色の獣の姿が見えた。

 その獣は、一瞬で背の高い葦の林に消え、草の中を駆ける音もすぐに消える。しばらくあって、遙か彼方で、一声、遠吠えが聞こえた。

 小舟の舳先が、ごつりと岸に着く。

「やれやれ、あのお嬢ちゃんは、全く意地っ張りで、ええかっこしいのくせに恥ずかしがり屋で、本当に先代さんにそっくりだ」

 からからと、ひとしきり河の市は笑う。笑って、ちらりと沖を一瞥し、微笑んだまま松蔵に目を戻しながら、網代笠あじろがさの顎紐を解く。

「あたしも、どうやらこれ以上は野暮ってもんのようで。それじゃあ、あたしもおいとまさせていただきやす。お達者で」

 言って、河の市は網代笠で顔を隠す。その途端、網代笠の向こうの雲水の袈裟がかき消すように消え失せ、網代笠がぱさりと船底に落ちる。

 松蔵は見た。網代笠が船底に落ちる一瞬、その笠の向こうに、今まさに水面に飛び込まんとする、痩せた、深緑の、蓑を背負ったような人の姿を。

 とぷり。その人の姿が、ほんの微かな水音と共に水面下に消えると、辺りは静まりかえる。水面みなもは鏡のよう、薄く霧のかかった沼は見通しが利かない。


 小舟を下りて、松蔵はどれくらい待っただろうか。

 数秒だったかも知れないし、小一時間だったかもしれない。

 ぽちゃり。少し離れた所で水音がした。水面に見えるのは、松蔵を見る、愛嬌のある二つの目と、その目の載る、ぬるりと艶やかな黒い丸い頭のてっぺん。

 とぽん。その頭が沈む。数秒あって、再び、ぽちゃり。今度は、岸部近くで、黒く艶やかな濡れ髪を体にまとわりつかせて、なずなが水から上がってきた。

「お待たせしました、あなた」

「なずな……よかった。帰ってきてくれたか」

 松蔵は、水際まで駆け寄って、なずなの肩を抱く。濡れた体は、冷たかった。

「……父は、沼の主は、去りました。もう現れないでしょう……私が、父を、ここに縛り付けていたんですね……やっと、分かりました……」

「なずな、もういい」

 松蔵は、なずなの冷え切った体を強く抱く。

「ああ……この手の熱さ……そう、私は、この手で、あなたの手で救われたんでした……」

「なずな、俺は、俺も、もっと早く、お前と話しておけばよかった。お前がそんなに思い詰めていたなんて……」

「いいえ、あなたのせいじゃありません……それに、もう、老い先短いけれど、これからは、この私でいいのなら……」

 湖畔の霧が、重なった二人の影を包んでいった。

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