第8話
老夫婦の散歩の折り返し地点であり、松蔵がリハビリを兼ねた散歩をする公園は、マンション工事現場から少し離れた所にあった。公園の中心には人口の池があり、そのほとりには、かつてここら辺一体が沼沢地であった事を記した来歴の書かれた看板も立ててある。池と言っても大した大きさではなく、せいぜいが一周五十メートルとちょっと、公園自体もそれほど大きいものではない。
その池の周りを、手すりに沿って歩くのが日課だという松蔵に、
しゃりん。夫の姿を見ながら物思いにふけりつつあったなずなの耳に、控えめで涼やかに、錫杖の遊輪の鳴る音が届いた。ふと音のした方を振り向くと、そこには雲水坊主が一人、錫杖をつきながらこちらに歩いてくる。はて、こんなところで行脚雲水とは珍しい。そう思って、何とはなしに見ているなずなの目の前で、その雲水は立ち止まる。
「
「ええ、どうぞ……」
「それじゃあ、有り難く、失礼いたしやす」
坊主というより、渡世者のような口の利き方だ、なずなは思った。坊主に知り合いは居ない、親類縁者の冠婚葬祭で見るくらいだが、こういう口を利く坊主は珍しい。
「いやいや、どうにもこうにも、こう暑くっちゃ、おつむのてっぺんが乾いて仕方ありやせん、ご婦人の前で無作法じゃあございやすが、ちょいと失礼いたしやす」
その坊主はそう言って、被っていた
少々驚くなずなに構わず、坊主は
「あの、失礼ですが、お坊様はお目が不自由なのでは……」
顔を拭くのを一瞬止め、坊主はなずなの声のした方を向き、にやりと笑う。
「若気の至りってヤツでして。まるで見えねぇわけじゃねぇんですが、こうお天道様が頑張ってると、どうにも眩しくていけねぇんでさ」
言いながら、ペットボトルの水を少し掌に取り、その手で頭のてっぺんを冷やすように撫でる。
その仕草を見て、なずなははっと目を見開く。
「仏様のお慈悲ってヤツで、今じゃ目開きの頃よりむしろ、いろんなものがよく見えまさ」
黒眼鏡をかけ直し、網代笠を被り直しながら、坊主が言う。
「……お坊様は、どちらからいらして、どちらに行かれるのでしょうか?」
なずなが、慎重に聞く。
「さて、あたしは根無し草なもんで。ただ、どうにもこのあたりで念仏の一つもあげて行かなきゃいけない気がしてしょうがないんで」
「……このあたりは昔、沼がございました。
マンション建設現場のはずれに、よく見ると小さな鳥居がある。なずなはそこを指差した。
「祠に、主を奉った碑、石があるはずです、よければ、お経の一つもあげて行っていただけますか?」
言いながら、なずなは着物の袂から財布を出し、寄進です、と言って幾ばくかの札を坊主に渡す。坊主は、念仏を唱えて有り難く受け取り、一礼してまた歩き出す。
「あのお坊様は、どうかされたのかい?」
急に声をかけられて、去りゆく坊主の背中を見つめていたなずなは驚いて振り向いた。鰍に支えられて、池を一周して戻ってきた松蔵がそこに居た。
「……旅のお坊様だそうです。鯰石にお経を上げていただけるよう、お布施をお渡ししました」
「おお、それは有り難い事だ」
やや寂しげに微笑んで答えたなずなに、松蔵が嬉しそうに返す。
「鯰石、って、何ですか?」
松蔵を車椅子に座らせながら、鰍が聞く。
「……ここいらが昔は沼だって、さっき言ったが、ある時その沼で大鯰が捕れてね。終戦後すぐの事で、食べる物に事欠いてたから、みんなで喰っちまったんだが、それが沼の主だったんじゃないかって誰ともなく言い出してね。何も無い頃だから、せめてもと石を積んで供養して、後で祠を建てたんだが、その名残の石がほれ、あそこの」
松蔵が、先ほどなずなが坊主に指差したのと同じ鳥居を鰍に示す。
「神社にあるんだ。元々は工事現場にあったんだが、工事の邪魔になるから祠ごと移して貰ったんだよ」
「へえ~、大鯰の主、ですか……」
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