第7話

「はい、じゃあ、ゆっくり腰を下ろして下さい」

 月曜の午前十時。デイケアの作業服に身を包んだ蘭鰍あららぎかじかがサポートして、介護対象者、梅野松蔵をゆっくりと車椅子に座らせる。ここは件のマンション建設現場にほど近い一軒家、年季は入っているが手入れも行き届いた古民家で、サポート対象の梅野松蔵と、その妻の梅野なずなが二人で暮らしている。松蔵は八十歳、なずなは七十五歳だという。それぞれ、絣の作務衣と留め袖を着込んだ、いかにもお似合いの老夫婦だ。デイケアの対象である梅野は、軽度の脳梗塞の後遺症で、頭ははっきりしているが立ち居振る舞いに多少の不自由があるのだと、鰍は緊急の交代要員という体ではいったデイケアセンターのスケジュール担当者から聞いていた。その、車椅子が欠かせない松蔵のため、玄関のスロープを始めとしてバリアフリー化のリフォームも行き届いており、またそれが出来る程度に裕福である事がうかがわれた。

「本当にいつも、ありがとうございます」

 梅野松蔵の妻、梅野なずなが鰍を含むサポート員に礼を言う。

「いえいえ、これがお仕事ですから」

「いや、お若いのに大した力持ちだ」

 謙遜する鰍に、松蔵が返す。

 この老夫婦は、これから日課の散歩に行くという。松蔵は、調子がよければ出先で少し、公園の手すり伝いに歩く事もあるという。とはいえ、そこまでは車椅子を使わざるを得ず、お年を召した妻のなずなに車椅子を押させるわけにも行かず、ケアサポート要員が一人ついて行くのが恒例になっている。

「じゃあ、今日はその力持ちがご一緒しますので、よろしくお願いします」

 鰍が車椅子を押し始める。近所を一回りして、可能なら公園で少しだけ歩いて、帰ってきたら風呂に入れる、それがいつものメニューだそうだ。

――その間に、何か聞き出せればラッキー、かな――

 やるとなると真面目にミッションをこなそうとする、蘭鰍であった。


「そういえば、このあたりは以前は沼地だったって聞いたんですが」

 マンション建設現場の横を通る際に、鰍はストレートに聞いてみた。

「あら、よく御存知で」

 先に答えたのはなずなだった。丸顔、やや低めでやや丸めの体型の、美人ではないが愛嬌のあるお婆ちゃん、という感じのなずなは、

「そうなんですよ、このあたりは昔は沼がありました。旦那様、埋めたのは何年前でしたかねえ……」

「……もう六十年、いやもうちょっとかな……」

 松蔵が口を開く。なずなと逆に、すらりとして長身、若い頃は相当浮名を流したと思える面影が、今でも残っている。

「お嬢ちゃんは知ってるかね、あの頃は岩戸景気ってのがあって、沼を潰して田んぼにして米をいっぱい作ったんだ……先代は、小作人にもっと多く田んぼを渡したかったと言っていたけれど、俺にとっては沼は遊び場でもあったから、哀しかったなぁ」

「先代、ですか?」

「ああ、自慢じゃないが、その頃はこのあたりはうちの土地だったんだよ。あらかたの土地はその頃の小作に売り渡したから、今はこのマンションの土地くらいしか残ってないがね」

 松蔵の口は軽い。本当にその頃を懐かしむようだ。

「……丁度そのあたりだ、沼の水源の湧き水があったんだが……もうずっと前に枯れちまったし、今は地面の下だなぁ……」

 松蔵が工事現場の中を指差す。その先を目で追った鰍は、そこが、ほんの二日前、自分と河の市を飲み込んだ心象念の、その中心である事を確認した。

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