第4話

 ――心象念?まずった!――

 足下の硬い大地が、突如として踏みごたえのない水面に替わる。当然、水に落ち、勢いで沈む。体が、そう感じる。

 違う、ここは建設現場で自分は硬い地面の上に居る。頭でそうわかっていても、体感を訂正出来ない。「そこは海だ!」と言われれば、大地の上で、溺死する。それが、心象念。

 無論、蘭鰍あららぎかじかは「協会」でも十指に入ると言われる程のフィジカルエリート――曾祖母と二人の姉にはかなわないが――であり、泳ぎだって得意だが、重い革ジャンに装備満載ではどうにも泳ぎづらい。自然に身の丈ほど沈んでしまい、両手のナイフを落とさないよう、慌てて溺れないよう慎重に水面を目指そうと立ち泳ぎを始めた時、ほの暗い水の奥に、ゆらりと蠢く、何かを、見た。

 ――こいつ、か!――

 左右のナイフを持ち替える。ダガーの方が効くなら、利き手に持っている方が良い。時間を稼ぐ。河の市かわのいちが必ず何とかするだろうから、その間、囮になる。そうと決まれば。

 ゆっくりと、水面を目指す。水の奥の揺らめく何かは、距離ははっきりしないが付かず離れず、だとしたら狙いは明らか、息継ぎの瞬間を狙って来るに決まっている。それさえわかっていれば。

 水面に出る瞬間。クイックターンの要領で身を翻す。間髪入れず右手のナイフを突き出す。だが空振り。その瞬間、鰍は見た。わずかに自分の真後ろから逸れた位置に居た巨大な鯰が、にたりと笑い、次いで口を大きく開くのを。

 自分の身の丈ほども開いたその口、周りの水と共に吸い込もうとするそれを、しかしあえて逆らわず、吸い込まれる瞬間、鰍は左手の大型ナイフを下顎の内側に突き立てる。

 頭蓋骨の裏打ちのない下顎は、吸い込む水圧の集中する、大型ナイフの鋭利な刀身で簡単に縦に引き裂かれる。たまらず、大鯰は頭を振って鰍を吐き出す。鯰が体制を立て直すまでの隙を突いて鰍は水面で一呼吸し、すぐに顔を水面下に戻す。少し離れた所に、こちらを睨めつける大鯰の顔。引くか、来るか。互いに牽制しあう一瞬。その時。

 何かに気付いたのか、大鯰が急に水底に頭を向ける。ごつり。何か重いもの同士、石の上に石を落とすような衝撃が水中を伝わる。大鯰が身を翻し、潜る。その横を、ものすごい勢いで河の市が泳ぎ抜け、鰍を抱えて水面から飛び出す。

 空中でトンボを切った二人が着地してみれば、そこは元の建設現場、足下は未舗装の土と砂利、間違っても池でも沼でもない。

 ため息をついて鰍は河の市を見る。河の市は脱ぎ捨てていた網代笠あじろがさを拾い、被り直す。

「上出来でさ、お嬢ちゃん。さすがはあの方のお孫さんだ」

「もう、これならお姉ちゃん達連れて来りゃ良かった。で、大丈夫なの?なにやったの?」

「最低でも二三日は持ちやしょう、ここは元は池か沼だったようでさあ。丁度この下あたりに水源がありやす。いつ頃かはワカランですが、埋めた時にはキチンと神職呼んだんでしょうや、石積んで塞いだのが、工事で基礎打ち込んでズレた、そんなとこでさあ」

「それを戻した?」

「置き直しただけで。いずれ力で押しのけられますな。ありゃあ、あたしじゃあ格が違いすぎまさ」

「じゃあ、あれ、やっぱり……」

「……主、ですな」

「やっぱりね……あんにゃろ、アタシの封止陣書き換えて心象念なんて、ああクソ!悔しいったらもう!」

「主ともなりゃそんなもんで。おかげであたしゃ潜りやすくて助かりましたがね。あたしもとんだ見立て違いでさ。夕べはもっと大人しかったんですがね」

「やっぱあれ、死霊?だよね?」

「生き霊じゃござんせんな」

「さあて……そしたらアレか、急に暴れ出したのは置き石がズレたせいだとして、そもそも暴れる原因か、うわ面倒くせ~……」

「今日明日はもう大丈夫でしょう、あたしももう少し嗅ぎ回りまさ。お嬢ちゃんは一度持ち帰って下せえ」

「……そうさせてもらうわ」

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