艦隊

「そうだ、このボート片付けなきゃ」彼女は言った。

「あれ、ここには置いておけないんだ」僕は訊いた。甲板はとても広くて、小舟の1艇くらい転がしておいても邪魔にはならなそうだった。

「爆風でやられたらいけない」

「爆風?」

 彼女は船首の方を指差した。砲塔が背負式に2つ並んでいた。細長い砲身が各々3本、船首に向かって伸びている。砲塔に間違いない。

「あれを撃つの?」

「そう」

「砲口からここまで結構距離があるように見えるけど」

「衝撃波にとっては距離とも言えない距離よ」

 彼女は舟の舳先の下に潜り込んでキールを持ち上げた。

「見かけによらず重いのね。上げられないことはなさそうだけど」

 僕は艫の方に回った。確かに2人がかりなら地切りは可能だった。でも担いで運ぶとなると体力的に無理がありそうだ。担ぎやすい形でもない。何よりまだ濡れていて体にくっつけるのはちょっと嫌だった。

「ちょっと待ってて」彼女はそう言って船尾の方へ小走りに消えていった。霧が甲板の上にまで流れ込んでいて、端の方は輪郭が失われていた。彼女のシルエットもすぐに見えなくなった。

 僕は待っている間にフックを外してダビットを折り畳んだ。根元にターレットとヒンジがあって、上のアームの背中側にだけ倒れるようになっていた。ボートを吊っている間には絶対に倒れない構造だ。よくできている。

 そういえば、彼女はあれだけロープを引いたのに疲れた様子はほとんどなかった。舟も軽くはない。それは今確かめたばかりだ。滑車を挟むとそんなに疲れないものなんだろうか。試しにやってみようかと思ったけど、その前に彼女が戻ってきた。5分くらいだっただろうか。


 彼女は後ろに背の低い4輪の台車を引っ張っていた。前後に長い重そうな台車で、骨組みの上にいかにも船底を支えるための形の板が何枚か並んでいた。

 でもいざ舟を乗せてみるとその形は微妙に合っていなかった。もっとまともに円筒形をしたものに合わせてあるようだ。

 円筒形で重いもの……砲弾とか?

 いずれにしても、乗るには乗った。多少ぐらぐらするだけだ。台車に乗せてあったロープをかけて固定。あとは船が転覆でもしない限り大丈夫だろう。

「ボート用の台車も作らないといけないな」彼女はそう言って腰に手を当てた。

 僕は台車の前方に回って長いハンドルを掴んだ。前輪に連動していてステアリングが効くようになっている。

 彼女は僕を先導して船尾へ向かって歩いていく。フードのついたコートをかぶっているせいで容姿はいまいちわからなかった。背は僕より少し低いくらいだろうか。中はスカートなのか、黒いタイツに包まれた華奢な脚の形が顕になっていた。靴はキャンバス地のスニーカーだ。船員とか水兵といった雰囲気ではない。それらしいのはコートだけで、強いて言うなら、乗り合わせの民間人、だろうか。

 途中、ボイラーの振動が大きくなって船がまた走り始めた。さっき姿を消した間に前進をかけてきたのだろうか。

 加速のモーメントはわずかに感じられたけど、波による揺れはまるでなかった。そうか、今まで船の上にいたんだ、というレベル。これだけ大きくて重い船だと相当な時化でもない限り屁でもないのだろう。

 砲塔は船尾側にも1基あった。長い砲身は何か狙いでもつけたようにやや上向き、まっすぐ船尾を向いて固まっていた。砲口には何も被せられていない。2層になった内側の金属材はよく磨き上げられて新品のコインのように光っていた。

 後部砲塔の横を通り過ぎた辺りで甲板の材質が木の板から鉄張りに切り替わった。ざらざらした滑り止めの塗料が塗られていて若干軟らかさがある。台車のタイヤが板目を踏む音がなくなり、ごうごうと唸るような音に変わった。

 甲板には何か意味ありげな白線がいくつか引かれていた。四角く区切られた一角がエレベーターの昇降板になっているようだ。僕が台車をその先の内側に収めたところで彼女は足元の小さなハッチを開いた。掘り込み型の操作盤だ。がくんと床が抜けるような感覚があって、あとはゆっくりと下降していく。

「ボート用のエレベーターなの?」僕は訊いた。それにしては幅に余裕があるなと思ったからだ。

「いいえ、ヘリ用」と彼女。

「ヘリコプター?」

「積んでるわけじゃないんだけど、いざという時に降りられないと不便でしょ? あなたは違ったけど、誰かを陸地や他の船に送ることだってあるかもしれないし」

 確かに、さっきみたいに舟を上げたり下ろしたりするのは重労働だし、それに海が荒れていたら小さな舟は耐えられない。ヘリコプターの方が便利かもしれない。

 エレベーターはテニスコートくらいある空間の端に下りていった。格納庫だ。でも彼女が言ったとおり、その中に仕舞われているものは何もなかった。ヘリコプターがないだけではなくて、代わりに何か荷物を置いたりだとか、そういった用途にも使われていなかった。それどころか、何かが置いてあった形跡さえちっとも感じられなかった。全くの空っぽ、純粋な鉄の箱だった。

 したがって僕が引っ張ってきた台車と舟がそこに置かれる最初の荷物のようだった。僕は空間の奥まで台車を引いていった。台車には車輪をロックするスイッチがあって、舟の方はロープで台車に固定してあったので固縛はそれで完了だった。

 彼女はエレベーターを上の甲板に戻す操作をしてから歩いてきた。

「服は濡れてない?」

「中は濡れてない」

 僕は答えてから慎重に上着を脱いだ。外側にはまだ水滴がついていたし、実際、ポケットの中に水が溜まっていて、逆さまにすると水風船を割ったみたいに水がこぼれてきた。

 床が濡れる。水溜まりがアメーバのように腕を伸ばして格子状に切られた排水溝へ走っていく。

「床が濡れちゃったな」

「そのための排水溝でしょ」彼女は肩を竦めた。

「あまりに綺麗だから」

「あまりに使う人がいないのよ」

 彼女はそう言って僕が脱いだパーカーを預かった。

 僕は続けて防水ズボンを下ろした。中にきちんとハーフパンツを穿いていたので問題ない。靴は長靴だ。履いたまま裾を抜く。靴下も濡れていない。

「大丈夫そうね。よかった。この気温でも濡れると冷えるから」

 彼女はパーカーを僕に返して自分もコートを脱いだ。つられて腰の高さまである長い髪がふわりと広がった。しなやかな艶のある赤毛だった。

 目は青く、二重ながら目尻の高いやや東洋的な切れ長の目。ふっくらした弓なりの鼻梁には近くから見てようやくわかる程度のそばかすが微かに浮かんでいた。唇は薄く、おしゃべりが好きそうな感じ。顎は細いが輪郭は面長ではない。

 服はやはりスカートで、上は丸襟のクリーム色のブラウスだった。ブラウスは半袖、白くて細い肘が露わになっていた。スカートも生地が薄い。動きによっては太腿の形が浮き出ることがあった。どちらかというと気温が高いのだろう。そういった格好だ。

「あなたも他の人間を見るのが久しぶりなの?」彼女は訊いた。

「久しぶり……なのかな。覚えてないんだ」

「覚えてなくても、そういうのって感じない?」

「どうだろう……」

 彼女は船首方向に向かって歩き始めていた。僕は考えるのを後回しにして後を追った。当然格納庫のレベルにも甲板があって前後に通路が走っている。ただ露天甲板と違って外の明るさが入らないから薄暗いし、通路は互いに体を横にしないとすれ違えないだろうというくらいの細さで、しかも水密区画のためにそこら中に隔壁の敷居があって、踏み越える度に気をつけて足を上げなければならかった。

「あなたは色々なことを覚えてないみたいだけど、どこで生まれたとか、自分の名前とか、そういうものも憶えていないの?」

 僕は少しばかり考えてから頷いた。

「どうやらそうみたいだ」

「なるほど、そういうパターン」

「他にも僕みたいなパターンがいた?」

「いいえ、リアルではあなたが初めて。でも、そういうのあるでしょ。お話の中では」

 僕はまたゆっくりと頷いた。確証はなかったけれど、あるかないかで訊かれれば断然「ある」に思えた。

 大きな船だ。通路はどこまでも続いているかのようだった。どこまで行っても突き当りは見えず、同じ景色が繰り返していた。実はまだ夢の中で、現実から何か刺激を受けるまで抜け出すことができないんじゃないかという気がした。今に彼女が振り返って同じ質問を繰り返すかもしれない。

 でも彼女はあるところで階段を上った。急な階段だった。蹴込みが足よりも短いのだ。

 ほとんど頭の高さにある上の階へ、さらにもう1階層上がると目の前にエレベーターの扉が現れた。本当に目の前だった。ちょっとでも気を抜いていたら頭からぶつかっていたかもしれない。

「もともとの設計にはなかったんだけど、階段でしか登り降りできないなんて、疲れるし、踏み外したら危ないし、不便でしょ」

 後付けだからこんなちぐはぐなのか。下の階には届いていないし、壁から迫り出しているせいでただでさえ狭い通路を余計に圧迫していた。

「上着はここにかけておいて」

 彼女はエレベーターの真ん前の部屋に入ってハンガーを渡し、扉を開けて僕を待っていた。浴室のようだ。

 エレベーターに乗り込むと彼女は「航海艦橋」と書かれたボタンを押した。せいぜい4人乗りといった具合の広さで、内壁に背中をつけていないとお互いの息がかかりそうなくらいだった。

 扉には分厚い窓がついていて、1階上がるごとに床組みが視界を遮った。それで6階層上ったのがわかった。


 航海艦橋は閉塞的なそれまでの階とは違った。真ん前に左右の壁まで回り込むほど横長の大きな窓があって、空間としてはちょっとしたリビングくらいの広さだった。窓の下と手前の壁面にパネルやコンソールが巡っていて、正面にはそこから独立して操舵用のシートが置かれていた。そこだけは船というより飛行機のコクピットだった。

 でもここまでは全て船の運用に必要な装置だ。違和感はない。異様なのはその空間が生活感で満たされていることだった。コクピットの横にはソファが置いてあるし、手前の壁にはベッドがある。何より点々と観葉植物が置かれているのだ。それこそリビングのような空間だった。何か微妙な空間転移が生じて軍艦の一部と彼女のごく私的な生活空間が重なってしまった。そんな感じだった。

「散らかってて、ごめんなさい」彼女はちょっと恥ずかしがりながら僕を招き入れた。目についたブランケットや洗濯物を拾い上げてベッドに放り投げる。

「ええと、お構いなく」

 何がどうすれば散らかっていない状態と言えるのかよくわからなかったけど、僕はとりあえず頷いた。

 それから僕は手前の壁面にある船の模式図に目をつけた。船が側面から描かれていて、大きな船体が細長い四角で区切られていた。浸水や火災といった異常を検知・表示するためのパネルなのだろう。

 でも僕が気になったのは船体ではなくその上に乗っている上部構造物だった。全長の中心より少し舳先寄りに背の高い長方形の艦橋があり、そこから船尾に向かって煙突、少し背の低い後部艦橋がほぼ均等に並んでいた。砲塔はやはり前に2つ、後ろに1つだ。大きさは3つとも同じに見えた。要するにどう見ても戦艦だった。ようやく確証が得られた。

 確かにさっきまで直接外から見ていたのだけど、霧のせいで全体のシルエットが掴めなかったのだ。巨大なものは遠くから見ないと全容が把握できないものだ。

「かなり古い船なの?」僕は模式図を見ながら訊いた。

「デザインはね」彼女は答えた。それからちょっとクスッとした。「船の古いとか新しいとか、そういうのはわかるのね。自分のことは憶えてないのに」

 僕はきょとんとした。左を見て、それから右を見て、最後に彼女の顔に目を落ち着けた。

「そうだね、確かに、なぜだろう」

「たぶんだけど、言葉にならないものは憶えているのよ。ロープの結び方もきちんとしていたし、記憶喪失のお話がたくさんあるってことも納得していたでしょ?」

 ロープの結び方。

 そうか、僕はダビットにロープを括る時も舟と台車を固定する時も自然にロープを結んでいた。彼女はそれを見ていたのだ。

「言葉にできない、というか、うーん、……具体的な、体験的な記憶ではないこと、と言った方がいいかもしれないけど」

「わかるよ。記憶喪失のお話が存在するってことは知っているけど、いくつか挙げてみろって言われると困る。言葉にならないっていうのは――」

「そう、そういうこと。見て、霧が晴れてくる」彼女は窓際のパネルに寄りかかって外に目を向けた。早く次の話題に進みたいようだった。何か余計なボタンでも踏んでるんじゃないかという位置だったけど、彼女の腰はちょうど無垢の鉄板が敷いてあるところに乗っていた。

 僕も窓に近寄った。確かに霧の明度が高くなっていた。裏側から強い光を当てられたような具合だ。さっきよりもずっと視界が伸びて舳先の輪郭もくっきり見えた。波除板から前方は木甲板ではなく鉄板張りで、そこに錨鎖が2本ぴんと走っていた。上からだと甲板の様子もかなり違って見える。

 船が進むほどに霧はさらに薄くなり、黒くうねる海原が広がり、1キロほど前方を別の船が先導しているのが見えてきた。最初に僕を襲った引き波はあの船のものだったのだろう。

 僕は自分がどれほど危ない状況にあったのか理解した。戦艦は10隻以上の船に囲まれていた。互いの間隔はかなり開いているが、それでもそんな数の引き波に襲われていたら確実に転覆していただろう。

「さあ、捉えた」と彼女。

 僕が振り返ると彼女はコクピットシートに収まっていた。

「捉えたって、何を?」僕は訊いた。

「ドーザーを、よ」彼女は答えた。「シルヴァルトの上を通りそうなドーザーの破壊。それが私の役目なの」

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シナプスの舟 《閉じ込められた海、あるいは融け合う森》 前河涼介 @R-Maekawa

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