シナプスの舟 《閉じ込められた海、あるいは融け合う森》

前河涼介

黒い戦艦



わが船のまはりいささか残しおきて 狭霧となりぬ大き海原

                         ――石榑千亦


………………


 何かとても長い夢を見ていたに違いないのだけれど、舳先が波を砕く音で目を覚ました時、僕はその中身を何もかもすっかり忘れてしまっていた。

 思い出そうとしても何も手がかりがなかった。夢の中の景色はまるで海の底に沈んでしまったかのように深い闇の中に閉ざされていた。

 たぶん人は眠っている間だけ海底を歩くことができるのだろう。目覚めている間は陸の上を歩いて、たまにには海を泳いで、あるいは潜って、けれど手の届く深さは海のほんの上辺だけだ。

 僕は舟の上にいた。舳先から艫まで5メートルほどの木製のカッターだ。起き上がると左手側に海面があって、体が自然とそちらに引きつけられるのを感じた。

 波に煽られて舟が傾いているのだ。危うくオールが転がり落ちそうだった。右舷側に体を伸ばし、オールを海面に差し込んで舟を波に立てる。舟全体がふわりと浮き上がり、沈み込み、次の波が目の前に壁のように迫ってくる。舳先がナイフのように波を割り、再び波頭へ。足が浮きそうなくらい前後に傾いた。

 けれど襲ってきたのはその2つの波だけだった。あとにはさざ波だけが残っていた。もともと眠っていられるくらい凪いでいたのだ。何者かがわざと波を立てたのかもしれない。

 ただ、周囲は霧に閉ざされていて視界は通らなかった。自分が海の上に浮かんでいるということだけはわかる。潮の匂いがする。しかし水平線がどこにあるのか、近くに陸地があるのか、今が昼なのか夜なのか、それさえもわからなかった。

 まるで濁った海の中にいるようだった。もしも周囲を漂う泥が真っ白だったなら、きっとこんな景色だろう。


 その濃密な霧を突き刺すように「ピューウ!」と鋭い音が響いた。2度だ。僕は思わず耳を押さえた。それくらい大きな音だった。なんだろう、海鳥の鳴き声だろうか。それにしては大きい。生き物の出せる音量には思えなかったけど……。

 舟の揺れは収まりつつあった。僕は改めて周囲を見渡した。霧はずっしりと空間を満たしている。が、左舷前方に何か大きなものの影が浮かびつつあった。

 ……大きなもの?

 それが何なのかはわからない。ただ、まず霧の一点がわずかに黒ずみ、そのシミががじわじわと大きくなっていくのだ。

 そこには「動き」があった。

 何かが近づいてくる。

 僕は両手のオールを強く握った。それでどうにかできる程度の問題とも思えなかったけれど、身構えずにはいられなかった。


 そしてそれは現れた。

 黒い影の頂点から真っ黒な舳先が浮かび上がり、放物線を描きながらそのエッジが下がっていって海面に触れ、大きく反り返った舷側は次第にその角度を減じて垂直に近づいていく。乾舷の高さだけで5mは下らない。しかも船体が顕になるにつれて霧の黒ずみもさらに上へ伸びて、最終的には頭上まで覆ってしまいそうな背の高い船橋せんきょうが姿を現した。一体どれほどの高さがあるのだろう? 一番高いところを見上げていると平衡感覚が狂って後ろへひっくり返りそうだった。

 舳先に割かれた波がごうごうと音を立てて舷側を洗っていく。黒い壁のような舷側が目の前を流れていく。巨大な図体に押しのけられた空気が風の壁になってぶつかってくる。

 唖然としてる場合じゃない。

 僕はオールを握り直した。間もなく引き波が来る。大きな船は左舷を見せて現れた。波も左からだ。オールを回して舟の舳先を左へ向けた。

 そしてさっきよりも大きく深い波が襲いかかってきた。

 波頭が白い。大きな船の赤と緑の航法灯が尾を引いて揺れる。舟の底が完全に海面を離れた浮遊感。

 オールを突っ張って舟と体を繋ぎ止める。界面に叩きつけられた衝撃で飛沫が立ち上がり、舟の中にどさっと落ちてきた。

 ぐっと姿勢を低くしてもう一波を凌いだ。揺れが収まるのを待っていると、海中から「ドッドッドッドッ」という音が船底を叩いているのが聞こえた。エンジン? タービンの音だろうか? いずれにしろ、たぶん今の大きな船が発している音だ。

 頭を上げると髪をもみくちゃにするようなデタラメな風が吹き荒れていた。船の後ろに巻き込まれた風が暴れているのだ。

 最初に襲ってきた2つの波は他の船の引き波、次の突き刺すような音は汽笛だったのだろう。ああ、そうか、全て船の存在を示す手がかりだったんだ。

 まだ後続が来るだろうか。同じくらい大きな船が来たら次こそ転覆するかもしれない。長靴の靴底が浸かるくらいの水が舟の中に溜まっていた。排水する手段がない。

 幸いナイロンのジャンパーを着ていたから、まともに水をかぶったわりに上着の内側は濡れていなかった。今まで気温という気温も感じていなかったけど、濡れた手だけは確実に冷えてきていた。


 汽笛が聞こえた。

 一つの音が何度も反響して少しずつ小さくなっていく。まるで霧が柔らかい壁になって音を跳ね返しているようだった。先程の音とは明らかに聞こえ方が違った。音程も低く、音源の場所もすぐにわかった。背後だ。通り過ぎた大きな船の煙突が明らかに音の中心だった。かなりのスピードで走っていたのだろう。すれ違ったばかりなのに甲板上の構造物がもう消えかかっていた。丸みを帯びた船尾だけが取り残されたように輪郭を保っていた。

 そして不思議なことに船尾だけは消えなかった。それどころか煙突なども再び霧から抜け出してきた。

 後進をかけているのだ。僕の存在に気づいたのだろうか。

 さっきはまるで人の気配がしなかったけど、少なくとも見張り員はきちんと乗っているのだろう。そうでなければこんな小舟に気づくはずがない。

 船尾が再び目の前を通り、舷側がゆっくりと滑っていく。小刻みにスクリューの回転が上がったり下がったりする。その度に煙突から黒煙の綿が飛び出していた。


 大きな船はまだ少し後進方向に滑っていたけど、手漕ぎでも追いつける程度のスピードになった。

 舷側は鱗のない魚の肌のように濡れて光っていた。

 僕はオールを回して大きな船の動きに合わせながら、できるだけ視点を高くして甲板の上に人影を探した。でもやっぱり全然見えなかった。構造物の上に通路と手摺は張られている。見張り所の張り出しもある。舷窓もある。でも人はいない。

 そうして眺めていると船橋下の防水扉が開いて紺色の長い防水コートを着た人影がラッタルを下りてくるのが目に入った。

 人影は舷側の陰に一度消えたあと、手摺に飛びつくように現れた。

「引き上げるから少し待ってて」

 彼女は言った。格好からは性別がわからなかったけど、明らかに女の声だった。それは少し意外な感じがした。船員・水兵といえば男の仕事だと思い込んでいたようだ。

 彼女はまず手摺の上から格子状の縄梯子を投げ下ろした。舷側はいかにもつるつるしているし、バルジのせいでややオーバーハングがあって掴み所がない。上りようもない。まずは縄梯子に掴まって舟を舷側にくっつけておけということのようだ。

 僕がそうしている間に彼女は舷側の上端に折り畳まれていたボートダビットを起こして、その先端から僕の舟に向かってフックを下ろそうとしていた。

 そんなものを引っ掛ける場所があるのだろうかと思ったけど、舳先と艫にお誂向きの金属の輪が差し込んであった。

 吊り上がってからひっくり返るのも嫌だからオールを伸ばして横から叩いてみたけど、それくらいではびくともしなかった。

 風に煽られて顔に向かってくるフックを躱して掴み、舳先の輪にかける。

 ロープはなおも伸びていって海面についた。そうか、人力だからロープを引いていると下が見えないのか。

「もういい、止めて」僕は言った。

 張った声が霧の中に響いた。

「ごめん、下が見えないの」

「フックはかかった」

 少しロープを巻いてテンションがかかった。彼女も手応えでわかったのだろう。一度顔を見せた。

「オーケー、もう片方も下ろすわ」

 感覚を掴んだのだろう、艫の方は水に浸からなかったし、フックが顔に当たりそうになることもなかった。

 すぐに巻き上げが始まったが、船が海面を離れてからが長かった。ダビットの大きさからして本来片側だけでも10人単位で引くためのものだろう。滑車を噛ませているので一人でも上がらないことはないけど、おそろしく地道な作業だった。

 まず舳先が2,3回ずるずると持ち上がり、今度は艫が2,3回持ち上がる。その繰り返し。さほどバランスもよくないし、舟は揺れる度にあてつけのように縄梯子にぶつかっていった。できることなら僕も自力で巻き上げをやりたかったけど、ロープの端はフックに結びつけてあるだけなのでどうしようもなかった。舟を揺らさないように小鬼のようにじっと座って、気を紛らわせるために濡れたロープから滴る水滴を眺めていた。張力で絞られるせいでいくらでも水が出てくるみたいだ。

 なんだか眠くなってくるくらいの時間が経って、ようやく甲板の上が見えてきた。全身真っ黒な船なのかと思ったけど、甲板には白木の板が張られていた。

 ボートダビットはもう少し長い船を想定した配置のようで、首がかなり内向きになった上になおロープが斜めに張ってハンモック状に舟を吊っていた。最後は右舷を縄梯子に擦りながら手摺を超えた。

 彼女はダビットを回転させて舟を甲板の上に下ろした。

 舟は中心線のキールの部分が一番低くなっているし、甲板には架台も何もない。従ってロープのテンションが下がるとともに舟は片側に傾いていった。

 海側に倒れるのも恐い感じがしたので、僕は甲板の広い方へ舟が倒れるように体重をかけた。

 舟の中に溜まっていた水が甲板に流れ出す。僕はそれを踏み越えるように甲板へ飛び降りた。

 彼女はダビットの根元の方にロープを巻きつけていた。舟はひとまずここに固定しておくようだ。

「ありがとう、力仕事を押し付けてしまった」僕は声をかけた。もう片方のダビットに取りつき、彼女と同じようにロープを巻いていく。

 彼女はちょっとだけ振り返り、また手元に目を戻してから頷いた。

「シルヴァルトへ向かっていたの?」彼女は訊いた。

「シルヴァルト?」僕は訊き返した。聞き覚えのない言葉だった。

「じゃあ、途中でドーザーを見なかった?」

「ドーザー?」また知らない言葉だ。

「ああ、いいえ、目的地があるなら送り届けてあげようと思ったの。それだけ」彼女は答えた。

 僕には目的地があったのだろうか。あったのかもしれない。考えてみたけど思い出せなかった。夢と同じだ。

「気づいたら舟の上にいたんだ」

 彼女はそこで少し手を止め、数秒置いてから結び目を作ってロープを留めた。

「どこで、何のために舟に乗ったの?」

「……なんだろう、目が覚める前のことは思い出せないんだ」

「行きたい場所がないんじゃ、送りようがない」

「また下ろしてもらうべきかな。何か理由があって放り出されていたのかもしれないし」

「そんなの見殺しにするみたいで嫌よ。人間なんて滅多にお目にかかれないんだから。とりあえずこの船に乗っておけばいい。あとで陸地までは送ってあげる」

「船長がそれでいいなら」

 構造物の上には高角砲らしい砲塔がたくさん並んでいた。明らかに戦闘艦だ。軍艦なら艦長と呼ぶのが正しいのだろうけど、彼女の態度がどうも軍人らしくないので船長にしておいた。

「いいわ」と彼女。

「え?」

「この船には私しかいないの。ああ、それと、今はあなたがいるか」

 僕は意外さで何も言えなかった。

 意外さというか、驚きだ。

 私しかいない、というのは、つまり、この船を1人で動かしているということになる。

 船を走らせたり止めたりするだけでもたくさんの人手が必要なはずだ。

 それを1人で?

 どういう仕組みで動かしているのか、という疑問よりも、冗談では、という気持ちの方が前に出た。

 でも実際には彼女が言っていることは本当だったし、何ならそれでも過小評価だったのだ。僕はまだあまりに彼女のことを知らなかった。

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