佐藤
仕事を定時に終わらせ、お疲れ様です、と職場を出たところで二人の同期に捕まった。
「おい、佐藤、ちょっと呑みにいかないか?」
と肩をたたくのは大柄な田中。田中の横で少し申し訳なさそうに肩を竦めながら立っているのが森で、入社してからしばらくはこの三人でよく仕事終わりに近くの呑み屋を練り歩いていた。
金欠を理由に断ってしまおうと口を開いた時、「森がちょうどいいクーポン持ってんだけどよ。」と田中が先手を打った。
「そこまで根回し済みなのかよ。」少し笑いながら片手を挙げ、降参の意を示すと森はニッコリと笑った。
「だって佐藤くん、金欠で断ると思ってさ。」
呑み屋に着き、ビールで乾杯するや否や、早速田中が口火を切った。
「おまえ、最近楽しそうじゃないか。みんな心配してたんだぞ。」
「そうそう、ほんと、一時期はどうなることかと。佐藤くん、全然笑わなくなってさ。まあ、その分仕事のスピードは上がったから会社にとってはよかったかもしれないけどさ。」
「そうか〜?っつーか、いつも仕事が遅いみたいに言うんじゃねえよ。おまえら、お互い様だろ。」
適当に返事をしてビールを煽る。
「で、何かいいことでもあったのか?」
田中の目が下世話な弧を描く。こういう風になった田中は非常に面倒だ。これは白状するまで帰れないなと観念して佐藤は渋々口を割った。
「ああ、まあ、彼女がな」
「え、彼女?」
不思議な顔をして田中と森は顔を見合わせる。
「おまえ、もう彼女できたのか?」
「いや、ほら、前からいた。え、おまえたちには話してなかったか?」
「……それで、彼女がどうしたって?」
数秒の沈黙の後、森が口を開いた。佐藤はいつもより真剣に見える二人を妙だと感じながら、しかし仕事で疲れた身体への久方ぶりのアルコールはよく回ったらしい、そのまま話を続けた。
「いや、さ。彼女が、最近俺の好みに合わせてくれるんだよ。」
「例えば?」
「例えば……、例えば、そうだな、記念日とか誕生日とかに似合うと思って彼女に服を買ったことがあるんだが、いわく服のセンスが無いらしくて今まで全然着てくれなかったんだよ。それが最近は文句も言わずに微笑んで着てくれるんだ。」
「あの、ボーイッシュな彼女が?」
「そう、どちらかというとフリルよりポケットが多い服を好みそうな彼女が。まあ、彼女は動けないからさ、俺が着せてるんだけど。」
「おい、おい、ちょっと待ってくれ。」
慌てた様子で田中が話に割り込んだ。
「おまえ、おまえが言ってる彼女ってかなこちゃんだよな?」
「そうだけど」
やはり、どうも様子がおかしい。
「色々、もうそりゃあ色々言いたいことはあるけど、まず、動けないってどういうことだよ?」
「それも言ってなかったか?一年前に事故にあって全身麻痺で動けなくなったんだよ。だから最近は俺が世話してる。」
「……は?」
「それで、その、彼女さんは今も家にいるっていうの?」
「そうなんだよ、だから、すまん、もういいか?早く帰ってやらないとまたあの時みたいに怒られ……」
あれ?と思った。自分の口から出た言葉に無視できないほどの違和感を抱いた。『あの時』?あの時ってなんのことだったろう。そりゃあ、あの時はあの俺が記念日に帰りが遅くなった日で、いや、でも、あの顔は、
「え、おい、佐藤!?」
「ちょ、佐藤くん!?……ダメだ、田中くん、救急車、救急車をよんで!」
白んでいく世界に二人の慌てた声が聞こえる。意識を手放す瞬間、あの日の彼女の家を出ていく姿が見えた。
目が醒めると白い天井が見えた。
「ここは?」
頭が鈍く痛む。意識にもやがかかっているようだ。確か、田中と森と呑んでいたはずだが。
「気がつきましたか。」
初老の男性がやってきてベッドを起こした。白衣を着ている。ここは病院だったらしい。
「あの、私はどうして病院にいるんでしょう?」
「御友人と呑んでいたところで突然倒れたんですよ。それで、彼らが救急車を呼んで、ここまで連れて来てくれました。」
医者は優しい声色で、良い御友人をお持ちですねと言った。
「それで、私はどこか悪かったんでしょうか。なんで、倒れたんでしょう。」
「佐藤さん、貴方最近疲れていたのでは?同僚の方もどうにも様子がおかしいとおっしゃっていました。もしよろしければ、何があったか私に話してくれませんか。」
『おかしい』?どちらかというと様子がおかしいのは彼らの方ではなかったか、と思いながら答える。
「あの、私は、私はどこもおかしくないし、特段疲れているわけでもない、と思います。強いて言うならば、全身麻痺の彼女が家にいて、その世話をしていることくらいでしょうか。でも、それだって、たとえ疲れていたとしても彼女のためならいくらでも頑張れる、と思いますし、それが彼女を守る私の役目なんです。そう、そう!彼女が家で待っている。一刻でも早く帰らなければ。先生、私は後どのくらいここにいればいいんでしょうか。私は早く帰りたいんです。」
医者は、佐藤の言葉を聞きながらメモを取り、頭をふった。
「佐藤さん、貴方はやっぱり疲れているんです。彼女のことは心配しなくてよろしい。我々の方で専門の方を派遣いたしますから、貴方は今は一旦ゆっくりとご静養なさってください。それでよろしいですね?」
佐藤は押し切られる形で渋々承諾し、住所等諸々の話をしてから渡された薬をのみ、眠りについた。まぶたの裏に浮かんだのは、柔らかな微笑みをたたえた顔ではなく、やはりいつかの怒ったような泣いたような彼女の顔であった。
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