第7話「馬鹿げた理想」
アルリガード王国の西部に位置する貧困街は、その治安の悪さゆえに悪党たちの温床になっている。
重犯罪が見逃されることはほぼないが、軽い喧嘩の仲裁やひったくりなどは頻繁に起こりすぎているがゆえに被害者の能動的な要請がない限りは見過ごされる。
つまりは、この貧困街はこそこそと悪事を働くにはうってつけの空間なのだ。
そう、例えば。
人身売買などの、表立って行うことのできない裏取引。
「ちゃんと帰ってきたか。明け方まで帰ってこなかったら厳しい仕置きをするところだった」
「…………、」
ぺたぺたと、裸足の足音が古びた民家の中に悲しげに響く。
リズは一切男と目を合わせることはなかった。ただ床を見つめて、黙ってそこに立っていた。
「せっかくいい値段で売れるんだ。躾の出来てないガキを売って評価が下がるのだけは困るからな」
男は質の悪いソファにどっしりと腰かけた。
他にも誰かがいる気配があった。おそらく、昼間にカインが倒した男たちだろう。もし自分が商品でなかったら、どうなっていたことか。
リーダー格の男は、とんとんとソファのひじ掛けを指で叩き続けていた。
「だがまぁ、帰ってきたとはいえ二回目の脱走。上玉だからある程度自由を与えたが、一度しっかりと躾をしておいた方がいいな」
「……!」
リズは部屋の奥に嫌な気配を感じた。突き刺すような恐怖が彼女を襲う。
次いで感じたのは、全身を舐められるような気味悪さ。
ぐちゃり、という寒気のする音がした。
「裏で商人をやってると、こういう魔物を扱うこともあるんだよ。お前に呪いの紋章を描いた魔法使いがまたいい仕事をしてくれてな。飼い主の言うことに素直に従うように調節してもらったんだ。あいつは本当にいい魔法使いだよ。呪いなら他に出るやつはいないってぐらいさ」
くっくっく、という笑い声が部屋に響く。
ぐちゃり、ぐちゃりと、何かがリズへと距離を詰めていく。
薄暗い部屋の中で、リズはそれの全貌を見た。
濁った紫色で、五ヶ所ほどに赤い光が灯る、流動的な体をしたそれは、おそらく。
「キメラスライムって名前らしいぜ。なんでも、呑み込んだ獲物を消化したら、その獲物の特徴を再現して襲ってくるんだとよ」
その言葉を証明するかのように、キメラスライムの姿は常に変わりつづけ、翼のようなものを生やしたかと思えば強靭な爪を伸ばしたり、一言で表すことのできない形になっていた。
「だからよ。お前を売るまでの期間で治る程度の怪我を負わせる形態に変化することも容易だってことだ」
「……ッ!」
反射的に、リズは踵を返して走り出した。
振り返る直前に、笑う男の顔が見えた。逃げても必ず捕まえるという確信があるのだろう。
ぞわ、という悪寒を背中に感じ、リズは本能的に体をかがめた。
ドゴォ! と急激に伸びたスライムの腕が紙一重でリズの頭上を通過して目の前の壁を破壊した。
さまざまな生物を吸収してきたのだろう。リズの視界に映ったスライムの腕は、一つの生物で表現しきれない複雑な形をしていた。
だが、不幸中の幸いか、スライムの攻撃を受けた壁が崩れ、リズが通り抜けられる穴が開いた。
リズは必死にその穴をくぐり、外へ抜け出すが、
「……ぇ?」
外に出たはずなのに、逃げ道がなかった。
荒れた正方形の空き地だが、その四方がすべて民家によって壁になっており、隙間なく閉ざされた空間になっていた。
いや、一ヶ所だけ通路のような場所があるが、木箱のような何かが積まれており通ることができなくなっていた。
ということは、つまり。
あの男は最初からこの空き地にリズを追い込むつもりでスライムに攻撃をさせたのだ。
「精一杯逃げてみろ。日が昇ったら終わりにしてやるよ」
民家の二階では、ギャラリーのような男たちが何人か窓からこちらを見下ろしていた。
やはり最初から、見せ物にするために彼らはこの舞台を設定したのだ。
「ごめん、なさい……!」
言葉にならない恐怖に涙を流しながら、リズは空き地を走って逃げる。
外へと出てきたキメラスライムの体が次第に膨張し始め、人二人以上の高さまで縦長に上がり、うねうねと腕のような何かが何本も横に伸びていた。
泣いても謝っても、男たちは笑うだけだ。だがそれでも、リズには逃げる以外にできることがない。
恐怖に目をつぶったリズは、思わずこんな言葉を口にした。
脳裏に浮かぶのは、太陽のように優しい、あの笑顔。
「助けて、カイン……!」
キメラスライムの攻撃が近づいてくるのを、肌で感じた。
そしてその攻撃は、リズの体へ一直線に向かって――
「【
ふわりと、覚えのある匂いがした。
慌てて目を開ける。いつの間にか切り落とされたスライムの腕が、不気味にうごめいている。そして、さらに目の前に見えるのは、一度救ってくれたあの背中。
信じられないと、リズは何度も目をこすった。
だが、彼は変わらずそこにいた。
月光に反射する美しい剣を、その手に握りしめて。
「間に、合った……ッ!」
既に目の前に立つカインは肩で息をしていた。
辛いはずだ。頬には汗が流れている。しかし、そんな様子を決してリズに見せないよう、カインは笑って振り返った。
「ごめんね。来るのが遅くて」
「どう、して……?」
戸惑うリズに対して、カインは穏やかに答える。
「今日はいろいろあって寝付けなかったのがラッキーだったよ。部屋に荒らされた後はどこにもなかったし、リズちゃんが自分から戻ったのはすぐにわかった。だから、探した」
そう、カインは答えた。
頼まれてもいないのに、そんなことをしている場合ではないはずなのに。
命が危険に晒される可能性を知っていてなお、一人で彼は来た。
しかし、納得できないリーダー格の男はカインへ叫び声を上げる。
「てめぇ! どうしてここが分かった! この空き地へ続く通路は全て荷物で塞いでるんだぞ!」
「昼間、空き家はないかってずっと探してたんだ。だから、リズちゃんを助けた場所の近くで、お前たちの拠点になりそうな家を思い出して、片っ端から探した。そうしたらすぐ近くで建物の崩れる音が聞こえたから、屋根に上ったらここが見えた」
リズは目の前にいるカインの足へ視線を移す。
彼の心の恐怖はないはずだ。それでも震えているのは、足への負担が大きかったからか。必死にリズを探し回り、さらには無理をして屋根まで上がって、ここまで勢いよく降りてきた。
もう迷惑はかけたくないからと、戻ってきたのに。
また自分のせいで、彼はここに立ってしまっている。
「ごめん……なさい……!!」
泣きながら謝るリズの頭に、カインはポンと手を置いた。
「謝らなくていいんだよ、リズちゃん」
君は何も悪いことはしていないのだと。
謝る必要は、どこにもないのだと。
そう、言うように。
「僕はリズちゃんに関わらなければよかったなんて、少しも思ってないよ」
「でもっ……! リズの、せいで……!」
「大丈夫。絶対にあいつを倒して、君を救ってみせるから」
自分のせいで誰かが不幸になってしまうのが怖いのなら、不幸になる未来ごと変えてしまえばいい。
そんな馬鹿げた理想を最後まで貫き通した人を、ずっと見てきた。
そんな人に、託すと言ってもらったのだ。
「リズちゃんが笑ってありがとうって言えるような未来のためになら、僕は全てを懸けて君を救ってみせる。僕はそんな未来を追い続ける人の背中にずっと、憧れてきたから」
決意は、覚悟は、もうこの胸に、この剣にある。
これからは一人で戦わなくてはならないのだ。
この程度の敵を倒せずに、勇者だなんて名乗れるわけがない。
「べらべら喋りやがって! 何様のつもりだ、殺してやる!!」
吐き捨てるような怒声に対して、カインはこう答える。
その手に握る剣の切っ先を、真っ直ぐ前へ向けて。
「僕の名はカイン=デルガ。平和になった世界を救い、新たな勇者になる男だ!」
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