第6話「ごめんなさい」
「はい、目をつぶってね」
「ん……、」
リズの頭にかけられた水が、薄汚れた彼女の灰色の髪を綺麗な銀髪へと変化させていた。
ブルブルと頭を振って、リズは水を払い飛ばす。普段はポニーテールにまとめあげているルフィアもそれを解き、肩甲骨の半ばまで伸びた黒髪が濡れて艶やかに垂れていた。
幼く未発達のリズの体を拭いているルフィアは、彼女の右肩を見て手を止めた。
「これは、あなたが売られた先の男の人が?」
「……ん、」
こくりとリズは頷いた。
世界を冒険してきたルフィアには、その紋様が何なのかを分かっていた。
目を細めながら、ルフィアは紺色の紋様を撫でる。
「リズは魔法を使ったことはある?」
「……まほう?」
反応からして、魔法についての知識を持っているわけではなさそうだ。
ルフィアが見た限り、この紋様は描かれた者に呪いをかける類のものだ。そしてその呪いはおそらく、対象の魔力を封じて魔法やスキルを使えなくすること。。
今ルフィアにかけられている呪いよりもずっと軽いものだが、リズの魔力を防ぐには十分すぎる。こんな少女に施すにしては、少々大げさすぎると思った。
だからルフィアは、リズが魔法を使えるはずだと思ったのだが。
「魔法って言うのはね、魔力を使って火や水を出すことができるものよ」
「リズ、火、出せる……?」
「魔法には基本的に火、水、風、土、光の五つがあって、全ての人にはそれぞれの属性に適性があるのよ。だから、その適性がない人にはその魔法は使えないの」
「……?」
理解ができずに、リズは首を傾げた。
ルフィアは穏やかに笑ったまま、
「つまりはその属性に才能があるかってことよ。火の才能があれば火が出せるし、水の才能があれば水が出せる。ちなみに私には火、水、土の才能があるわ」
「そんなに、たくさん……!」
「普通の人は一つあるかないかよ。ちなみに、カインは全ての属性に適正無し。典型的な才能無しね」
遠くでカインがくしゃみをする音が聞こえたが、気にせずルフィアは続ける。
「大抵の人は、瞳の色で一番適性のある属性が分かったりするのよ。リズは緑だから、風かしら」
「じゃあ……ルフィアは、火……?」
透き通るルフィアの緋色の眼を見つめながら、リズは言った。
ルフィアは「ええ、そうよ」と頷いてから、「今はちょっと使えないけれど」と笑った。
「リズは、火……使えない?」
「適性がなかったら、使えないかもね」
「…………ん」
悲しげに俯くリズの頭を撫でながら、ルフィアは「でもね」と言って、
「誰でも一つだけあるスキルはね、その適性を無視することが出来るのよ。だから、リズに魔法の適性がなくても、火を出すことができるスキルを持っていれば使うことができるのよ。そして、元々適性を持っていたらさらに強力な魔法を使うことができるのよ」
「じゃあ、リズも魔法……使える?」
「ええ、きっと使えるわ」
スキルは人によって千差万別で、魔法系のスキルを持つ人自体多いわけではない。さらにはその人物の魔法適正と魔法系スキルの属性が一致することなど滅多にないことなのだが、それを伝えなかったのはルフィアの優しさだろう。
それからもなんでもない雑談をしながら、入浴を終えたルフィアとリズは服を着替えて部屋へと戻った。
……のだが。
「あ、師匠。おかえりなさ――」
トレーニングを終わらせて大量に溢れる汗を拭いていたカインの腕が、ピタリと止まった。
彼の視線にあるのは。
しっとりと肌についた黒い髪。
出るところはきちんと出つつも引き締まった張りのある体。
筋肉質ではあるが、こうして見ると改めてこの勇者は女性なのだな、と思わざるを得ない艶麗な裸体が……
って。そうではなくて!
「し、師匠っ! お風呂から出たら服を着てくださいっていつも言ってるじゃないですかぁ!」
顔を真っ赤にしたカインは、慌てて顔を手で覆って反対の方向を向いた。
対して、当のルフィアは未だ隠す気すらなく裸のまま、
「なによ、いいじゃない。減るものじゃないし」
「減る減らないの問題じゃないですから! 師匠は女性なんですからもっと恥じらいをですね……」
「別に私のことを女として見るやつなんていないから大丈夫よ」
「僕は見てるのでやめてください!」
「…………ふ、ふーん。なら、まあ。着るけど」
話している間、ずっとカインが恥ずかしがって壁を見ていたのは幸運かもしれない。ルフィアは真っ赤になった顔を見られないように隠れて服を着始めた。
そして、服を着たルフィアが改めてリズを連れて戻ってきた。
ふう、と息を吐いて、ようやく落ち着いたカインはルフィアの隣に立つリズが視界に入った。
すっかり汚れが落ちたリズを見たカインは、顔を明るくして、
「わあ、とっても綺麗になったね。リズちゃんの髪、こんなに綺麗な銀色だったんだ」
「…………!」
カインに髪を触られたリズは、思わず彼から距離を取ってしまった。
思えば、つい数時間前まで人身売買をされていた身なのだ。ルフィアのような女性は大丈夫でも、男のカインを反射的に怖がってしまうなんて当たり前だ。
「ご、ごめんね、リズちゃん」
「……ん、ん!」
首を横に振ったリズは、申し訳なさそうに瞳に涙をためて、
「ごめん、なさい。カイン……リズのこと、助けてくれた、のに……」
「いいんだよ。気にしないでね」
「……ごめん、なさい」
しょんぼりと、リズは肩を落とした。
そんなリズの眼を、カインはまっすぐに見つめて、
「こういうときはね、ありがとうでいいんだよ」
「……、」
いつだって、何かをしたら謝っていたのだろう。自分を肯定されない日々を過ごしていたから、反射的に謝る言葉しか出てこないのだ。
この子が笑ってありがとうと言える日のために、何かをしたいとカインは思った。
「嬉しいことがあったり、誰かが助けてくれたりしたら、ありがとうって言えばいいんだ。リズちゃんがそう言って笑ってくれるなら、きっとみんなも笑顔になるから」
「……、」
返事はなかった。やはり、慣れていないからかどこかに抵抗があるのだろう。
ゆっくりでいいよとカインが柔和な笑みを見せたところで、髪を乾かし終わったルフィアが口を開いた。
「もう夜も遅いし、寝ましょうか。今日はいろいろなことがあったし、休める時にしっかり休んでおかないとね」
「じゃあ僕はソファで寝ますから、ベッドは師匠とリズちゃんで使ってください」
「ええ、最初からそのつもりよ」
「……そうですか」
少しだけ寂しそうな顔をしたカインは、寝支度を整えて横になる。
すぐにルフィアも横になり、おいでとリズを手招きした。少しためらう素振りを見せながらも、ゆっくりとリズはルフィアの隣で横になった。
そして、カインとルフィアの寝息が響き始めたころ。
「…………」
音を立てないように、リズは体を起こした。
こんなふかふかのベッドで横になるのが久しぶりだったとか、いろいろなことがあって落ち着かないとか、小さな理由はいくらでもあったが、一番の理由はそこではない。
リズは無言で、自分の右肩を撫でた。
あの売人の男に売られた際に施された呪い。これにどんな意味があるのかを、詳しくリズは知らない。しかし、一つだけ確実なことがあった。
数日前にも、リズは逃げ出したことがあった。そのときは絶対に見つからないと思うような場所に隠れたのだが、どういうわけか次の日の朝に見つかってしまったのだ。
その時は訳がわからなかったが、後から男たちが話している内容を盗み聞きして分かった。この呪いはルフィアの言っていたように魔力を使えなくするものだが、さらにもう一つ対象の居場所を突き止めることのできるものなのだ。
きっともうすぐ、この場所はあの男たちに知られてしまう。
しかし、リズが想像していたよりもずっとこの場所は優しくて、温かくて、今までのどんな場所よりも居心地がよかった。
こんなにも優しい世界があるだなんて知らなかった。
こんなにも慈しみに満ちた心を持つ人たちがいるだなんて、思いもよらなかった。
しかし、彼らには自分に構っている時間は本来なくて、この場所が気づかれてしまうことということがどれだけ危険なことなのかも、リズは直感で悟っていた。
だからこそ、いつだって苦痛に対して我慢という方法を取ってきたこの少女はある決断をした。
ベッドから静かに下りたリズは、二人を起こさないように歩く。
これ以上、この優しい心を持つ二人に迷惑をかけるべきではない。
いや、かけたくないという方が正しいだろう。
自分のせいで彼らが不幸になってしまうのなら。
いつだって悲しみと苦しみに耐えてきたリズは、この選択肢を取ったのだ。
部屋から出る直前、ルフィアが綺麗にしてくれた銀髪を闇夜になびかせるリズは小さな声で、こう呟いた。
「……ごめんなさい」
パタン、という乾いた小さな音が、寝静まった部屋に響いた。
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