二十四話 「神の脊髄」

†††



 アピュラトリスの最上階。

 そこでの戦いも終局を迎えようとしていた。


 結果からいえば、実に一方的な戦いであった。いや、これはもう戦いと呼べるものではなかった。


 十美乃神炎狐とびのかみのえんことなった羽尾火は、まさに神獣と呼ぶに相応しい力を持っていた。五メートル以上の巨体にもかかわらず、彼女の動きは神速に匹敵する。爪を振るえば、炎の激流が召還された餓鬼どもを蹴散らし、咆哮はあらゆる魔力を破壊し粉砕する。


 そして、炎狐の背から燃え広がった炎は、無数の炎針と化しオンギョウジに襲いかかる。



「オン マイタレイヤ ソワカ!」



 オンギョウジは魔障草を展開。しかし、あっけなく貫通。炎針は左腕を貫き、その業火は一瞬で肉体を炭化させてしまう。ボロボロと左腕が崩れていく。



(真言などまるで意味を成さぬな)



 全力。全身全霊で編み込んだ魔障草が、一瞬で消し飛ぶ。かつてエルダー・パワーの術士第四席の地位にいたオンギョウジの全力など、羽尾火にとってみれば稚児の遊戯にすぎないようだ。


 彼女の実力は上位のメラキに匹敵する。炎の術だけとってみれば世界屈指の実力者なのだ。単純な術比べでは到底勝ち目のない相手である。


 しかし、これだけの実力差がある相手とオンギョウジは、あれからしばらく戦っている。


 それは驚異。異常。明らかにおかしい。

 その理由がこれである。


 オンギョウジが首にかけている【念珠】が、二つ輝きを増すとともに溶解。左腕に絡みついて炭化した腕を再生させる。念珠は百八あったが、何度も炭化させられたために残りはすでに六つになってしまった。それも今二つ使ったので残り四つである。



「おやおや、また同じ手品かい」



 羽尾火は、その念珠を皮肉と侮蔑の感情を込めて見つめる。あれがなければ、本当ならば一瞬で終わっている戦いである。



「卑怯であると?」



 オンギョウジの腕が再生していく。正確には新しい腕が【創られていく】。見た目はかつての腕と同じであっても、中身はまるで別のものなのだ。



「いんや。ただ哀れだと思っての。そのような妄執を使ってまで成し遂げたいと思うておるとは哀れじゃよ」



 羽尾火はそれが何かを知っていた。



「生命の滴、【アグマロア】。禁術だけでなく、そのようなものまで用意してくるとはの」



 アグマロア。生命の滴、大地の結晶などと呼ばれる謎の石である。この石は強い生命力を宿しており、古来より儀式や術の媒体として用いられてきた。


 その力の強さと稀少さゆえに、アグマロアを巡って戦争さえ起きたこともある曰く付きの代物である。ただし、今では一般人が知ることもなく、物好きな学者くらいしか知る者はいない。知ったとしてもただの魔術の動力源としか思っていないだろう。


 しかし、違う。

 そんな生やさしいものではない。


 これらは【賢者の石】と呼ばれるものである。その素材には、もっと大きな秘密が隠されている。そう、この世界の存在意義すら揺らいでしまうほどの秘密が。


 賢者の石。

 その名の通り、賢者が作ったもの。

 賢者とはただ一人を指す。


 【黒賢人くろけんじん】、ただその人である。


 黒賢人が何の目的で石を生み出したかはわからない。その理由が何であれ、賢者の石と呼ばれる存在が多くの悲劇をもたらしたのは間違いない。


 それは生命そのもの。生命の輝きそのもの。見ての通り、オンギョウジが受けたダメージを一瞬で再生させてしまうほどの力を持っている。これがもし植物であれば、爆発的な成長を遂げさせることもできるし、場合によっては組織を造り替えて異常発達を遂げることもできる。


 賢人の遺産の中でも、こうした種別のものは特に禁忌に設定され、高度なセキュリティの監視下に置かれている。


 それは進化を阻害する可能性さえ持っているのだ。悪しき人間の手に渡れば身を滅ぼすどころか、環境そのものに大きな変異を及ぼす危険性があるからだ。崩れた生態系がもたらす悲劇は、人間自身が引き受けねばならなくなってしまう。


 ただし、アグマロアはより正確にいえば賢者の石ではない。その波動を受けて活性化した【鉱物】が長い時間をかけて力を得たものである。よって、アグマロアの数は本物の賢者の石よりも遙かに多く、その力も遙かに弱い。


 いわば偽物。イミテーション。ダイヤを真似たガラス細工。

 本物の輝きを知る人間から見れば玩具である。


 それでもオンギョウジが持っていた念珠は、アグマロアの中でも特上のものであり、強力な再生能力を持った【輪菩珠りんぼじゅ】と呼ばれるものである。


 序列二十二位のメラキ、シャッジーラ・アーディムには、アグマロアを加工する能力が賦与ふよされている。彼女が生み出した輪菩珠に匹敵する物は、そうざらにあるものではない。さらにそれをオンギョウジたち結界師が強化したレアアイテムである。


 が、それももう残りわずか。オンギョウジの生命は確実にすり減っていた。そもそも最初から相手ではなかったのだ。



「むなしいものよ。そろそろ終わりにするべきじゃな」



 羽尾火は好きで戦っているのではない。そうしなければ人が過ちを犯してしまうから戦っているのだ。


 この世界には力が満ちている。星々が運行される力、大地を生み出した力、人を創った力。それと比べればわずかであるが、現在ではさまざまな法則を操る方法が編み出され、人の生活は豊かになった。


 それが機械技術であれ法術であれ、すべては愛をもって扱わねばならないものだ。理念を知り、理性を支えとして使ってこそ、人々の生活を補助できるものとなる。


 人を慈しみ、大地を大切に扱い、平和と調和を求めてこそ、自然との融合、人の進化を促すものとなる。


 だが、人は誤用した。

 あやまってしまったのだ。


 理性が育っていない子供に優れた道具を渡せばどうなるのだろう。彼らは悪気なく力を使ってしまう。銃で親を殺してしまうかもしれない。その気はなくとも、ついイタズラ心で引いたトリガーは自動的に弾丸を発射する。


 発射した弾丸は、愛する母親を殺してしまうだろう。その後に待ち受けるのは哀しい記憶のみ。そうした破滅を防ぐためにエルダー・パワーは存在する。


 彼らだけではなく全世界にそうした者たちが存在する。それが本来のメラキである。知者と呼ばれる彼らは元来、世界を守る者なのだ。


 しかしながら、それらは分かれた。目の前のオンギョウジ。その裏にいる者たちのように、世界を直接改革しようと動くメラキが出てきた。


 それだけ限界なのだろう。人も自然も、この星さえも悲鳴を上げているのだ。叫びはラーバーンのような勢力を生み出していく。痛みが強すぎて、もはや手術しかないのだと訴える。


 羽尾火には、それが哀れでならないのである。



「ボウズ、もう終わりじゃ。諦めよ」


「羽尾火殿、時代が動くのです。あなたこそ退いていただきたい!」



 言葉はすれ違う。けっして交わることはなかった。


 羽尾火は動く。その爪がオンギョウジを一瞬で切り裂く。炎に包まれたオンギョウジは炭化。しかし直後に輪菩珠で再生。ダメージが大きいために、珠を三つ使用して再生。


 それでは終わらない。続けて炎狐の十の尻尾から火炎がほとばしり、再生したオンギョウジを再び焼く。最後の一個の輪菩珠も、あっけなく使用させられる。


 輪菩珠一個で再生できたのは臓器を含む体内のみ。表皮はすべて焼けただれ、常人ならばショック死していてもおかしくない激痛が走っている。



「はぁ…はぁ…! 懐かしい痛みですな…」



 もはや何ら抵抗する手段を持たないオンギョウジは、ただただ懐かしさを感じていた。以前もこうして羽尾火は【手加減】をしてくれた。


 その愛に、その憐憫の情に思わず涙がこぼれる。



「ボウズ、わしはおぬしに期待していた。偽りない気持ちじゃ」



 炎狐の炎が哀しみに満ちるように揺らぐ。弟子は大勢いたが、その中でもオンギョウジは未来を期待させる若者であった。


 羽尾火も不死ではない。いつか後継者を育てねばならない。オンギョウジがそうなってくれればと思っていたのは素直な気持ちである。



「ぬしは水じゃ。火の気質ではない。もともと無理であったのよ」



 オンギョウジは水の性質を持っていた。哀れみと平和を象徴する水の力である。感情を鎮め、他者の痛みがわかる人間だった。


 水を大蛇に変えるなど、彼は一度もしたことがなかったのだ。今もなお、そうした術を使うたびにオンギョウジの心は痛みで苦しんでいた。人が過ちを犯すことに泣いていた。


 自らがそうしなければならないことにも耐えかねていた。地下で死んだダマスカスの軍人にさえ、哀れみと悔恨の念を抱いていたのだ。


 だが、ラーバーンは火を放つ者。世界に対して怒りの火種を蒔く者たちである。彼は自身の水の性質を火に変えて、その激痛の中で戦っているのである。



「人の…世のために。人の…未来のために。愛の…ために」



 オンギョウジの口から出る言葉も、昔と変わっていなかった。ただただ、人が自らを苦しめるさまが見ていられず、哀れみの涙を流す一人の男にすぎないのだ。



「これで終わりじゃ。もう楽になれ」



 炎狐の真っ赤な炎が金色に輝いていく。炎にも格が存在し、低俗なものから高級なものがある。その中で最上の炎が、この金色の炎である。


 白狼が人類に授けた術の中でもっとも美しく、もっとも哀れみに満ちた浄化の炎、【哀魂金火あいこんきんか】。地上という物質世界に囚われ、痛みの幻想に囚われ続けている弱者を救済する炎。哀れみと優しさによって、魂を本来の上位の世界に導く清らかな力である。


 その金色の炎がオンギョウジを包み、静かに音もなく消し去っていく。痛みなどない。ただ哀れみと安らぎだけを炎に込めた慈悲の力である。


 羽尾火は術を解き、人の身に戻る。それからしばらく金色の炎が消えるのを見守っていた。



「わしが代わってやれればよかったのじゃがな…」



 オンギョウジは急ぎすぎてしまった。力で世界を変えようとしてしまったのだ。


 それは過ちである。

 世界を変える前にまず己を変えねばならなかったのだ。


 それができないほど彼らは優しすぎた。人の痛みがわかりすぎてしまった。世界の嘆きに敏感になりすぎた。その嘆きに囚われてしまった。それが哀れでならないい。



(ボウズが死したとて、これで終わりではあるまい。さて、どう出るかの)



 ラーバーンという組織の全容は、羽尾火でさえもわからない。オンギョウジなど、ただの尖兵にすぎない。少なくとも羽尾火と同等か、それ以上の術者が数人はいるはずである。



(厄介なのは【預言者】じゃな)



 その中でもザンビエルという存在は群を抜いている。彼の能力はまさに、人類が今まで得た霊媒能力の中で最高位のものであろう。


 古くから預言者の名は裏の世界では囁かれていた。しかし、その彼がこうして表舞台に出てくることは初めてである。


 彼は悪魔という救世主を得たのだ。

 人類を救済する者として万全の態勢で迎え入れた。


 そのザンビエルが、この程度で諦めるわけがないのだ。必ずや次の手を打ってくるはずであった。しかし、それ以上は羽尾火の領分を超えている。その対応は自分より上の存在が考え、決めればよいことである。


 羽尾火にできるのは危険な種を燃やすことだけ。このアピュラトリスで【事】が起きなければ、火もいずれは鎮火していくはずである。


 そうして羽尾火がしばらく炎を見つめ、他の結界師を排除しようと思った時であった。羽尾火はふと自分が放った炎を見つめながら疑問に思った。



(…おかしい。なぜ霊体が出ぬのじゃ)



 哀魂金火の炎はもう消えている。本来ならば霊体を包んで上昇していくはずである。それが発生していない。


 人が肉体を失うとシルバーコードが切れ、同化していた霊体が解き放たれる。どんなに肉体が損傷していようと、霊体自体は基本的に欠損することはない。もともとが不滅の粒子、神の粒子で作られているからである。


 霊体は肉体と同化している間は肉体と同じ形を形成しているが、本来は明確な形は存在しない。人が魂を見た時のように、炎のように映る。


 そう、人の魂とは【炎】によって創られているのだ。戦気という存在も人の意思も、すべては霊魂という炎の物的表現にすぎないのだ。



(白狼様の使いもおらぬ。なぜじゃ)



 そして、こうして霊体が肉体から解き放たれた際は、【白狼】の使いによってウロボロスに運ばれる仕組みになっている。


 白狼。


 偉大なる者の一人で、主に魂の循環や再生に関わる仕事をしている偉大な父の一人である。彼は数多くの分霊を生み出し、使いの【白い狼】たちに人間の魂を回収する役目を与えている。


 使いの容姿はまさにそのまま白い狼で、霊格によって大きさや光輝の色が変わることがある。霊格が高い狼となれば、輝くオーラが眩しすぎて金色に見えることもあるが、こうして迎えにやってくる使いは必ず白い狼である。


 古来より霊視能力者にはこの白い狼が見えていたので、一部の地域では白狼信仰が盛んである。白狼の使いは、物質世界で生きる人間にとっては【魂の解放者】であり、ありがたい存在なのだ。


 死ねば白狼の使いが、ほぼ必ずやってくる。魂が迷わないように優しく導く。現にこのアピュラトリスで死んだ者たちも、白狼の使いに導かれている。


 ユニサンが殺した兵士も、ロキ自身も例外ではない。唯一ユニサンが死ねば特殊な事例であるため、通常とは違うプロセスで調整されるが、死ねば霊体が出るのは誰でも同じである。


 だが、それがない。

 オンギョウジの霊体が出ていない。


 それはありえない。この世界は法則で成り立っている。例外はあるものの、必ず原因と結果の法則によって動いている。それが崩れることはありえない。術者とは、その理の流れを視認することができる者なのだ。


 ならば、これもまた当然の結果であるはずだ。

 そもそもの前提が違ったにすぎない。


 その通り。前提が違う。



 オンギョウジが死んだという前提が違うのだ。



〈羽尾火殿。あなたの愛、たしかに受け取りましたぞ〉



 声ではなかった。思念が直接羽尾火に届く。それは紛れもなくオンギョウジのものである。だが、どこにいるのかはわからない。



「せっかく感極まったというのに興醒めじゃな」



〈申し訳ございませぬ。昔から興には疎いものでしてな〉



 羽尾火はオンギョウジの気配を探るが、いまだにわからない。羽尾火ほどの術者を欺くことは難しい。これだけ近い距離。思念を発すればすぐにわかるはずなのだ。



「また手品かの。ラーバーンというのは小細工が好きじゃな」



 ゼッカーは天才である。強者である。ただし、身の程を知っている。今までの苦しい戦いから、現状のシステムがいかに強固かをよく知っているのだ。


 だから賢人の遺産を使うし、ロキも生み出す。禁忌であるアグマロアも使う。しかしながら、羽尾火の言うことももっとも。こんなものは手品のようなもの。所詮は小手先のものである。


 それが羽尾火にわかって、ゼッカーにわからないことがあろうか。



〈急ぎすぎる変化は毒にもなる。あなたのおっしゃることは正しい。されど、すでに汚染された世界を浄めるには普通の手段では不可能でありましょう〉



 ガコンッ。この巨大な空間の天井、その中心部が開くと、二十メートル四方の透明の箱のような部屋が降りてきた。


 そこには何も存在していない。

 ただ一つ、奇妙な形をした物体を除いては。



(あれは…何じゃ?)



 羽尾火は部屋の中央に【祭られていた】、白く長細いものを怪訝そうに見つめる。長さは三メートル程度だろうか。いくつかの節があるようで、細かな突起で複雑な隆起を形成している。



脊髄せきずいか?)



 羽尾火は、それが脊髄に似たものである印象を受ける。しかし、人のそれとは大きさも形もだいぶ違う。もしこれに似合う身体があるとすれば、今の人類と比較すればかなりの巨人になるだろう。



〈あなたも【アレ】のことはご存知なかったようですな〉



 羽尾火はこの部屋に入ることができるが、アピュラトリスについての知識はさほど持ち合わせない。


 オンギョウジたちの目的がアピュラトリス制圧であることを知り、ダンタン・ロームなどを補助するために都合がよい場所であるために、この最上階を選んだにすぎないのだ。


 もとよりこの部屋の秘密など知る由もない。



「その言い方だと、ぬしらが持ち込んだものではないようじゃな」



 オンギョウジの動きはすべて観察していた。そのようなものを仕込む余裕はなかったはずだ。


 こうして霊体を見失っているので、自分の知らない類の道具や術を使った可能性はあるが、オンギョウジの言い方を聞くぶんには最初からこの部屋にあったものだと思われた。



〈この存在こそ、ダマスカスの愚かさを象徴しているのですよ〉



 オンギョウジの意思が強まると同時に、天井がドームのように開いていく。


 そこからは青い空が見えた。


 周囲の雲はまるでアピュラトリスを避けるように広がっており、塔の真上は完全なる晴天である。ここはアピュラトリスのもう一つの中心部。地下制御室が心臓部だとすれば、最上部は脳。すべての神経が集まる場所なのだ。


 そこに存在する脊髄のようなもの。

 それこそがアピュラトリスのもう一つの【業】である。



〈あなたは拙僧が、この部屋で何をしようとしていたかご存知だろうか〉



 オンギョウジは、もう羽尾火を見てはいなかった。その意思はすでに中心部にある謎の存在に向けられている。


 羽尾火は、ここでオンギョウジが広域結界を張るものだと想定していた。おそらく、それは正しい推測であったに違いない。そのために結界師を配置したのだ。それは間違いない。


 しかしながら、いくらオンギョウジと結界師たちの力量が高くとも、アピュラトリス全体を覆えるものだろうか。


 直径四キロメートルにもなる巨大な塔を、世界各国の密偵と術者たちから隔離することなど到底不可能なことである。たかが人間。たかが僧兵ごときにそのようなことができるはずもない。


 だからなのだ。ユニサンが人を捨てたのは、そうでもしなければ対抗できないことを知っていたからなのだ。それだけ世界は大きい。


 ならば当然のこと。

 オンギョウジもまた人を捨てるしかない。



「っ!?」



 突如、羽尾火は周囲に巨大な存在の気配を感じた。今までまったく前兆がなかったために、羽尾火ほどの術者も驚きを隠せない。


 それほどの【生気】。巨大な生命の鼓動。


 しかも植物の生長のような爽やかなものではなく、もっともっと濃密でダイナミックな気配である。哺乳類、いや、それを超えたものの生命の鼓動。


 鼓動は次第に大きくなり、リズムは螺旋を描いていく。

 生命が膨れ上がってくる。


 羽尾火はこの時、今までオンギョウジの気配が掴めなかった理由を知った。彼は逃げたわけでも隠れたわけでもない。最初から最後まで、そこに存在しただけである。


 そう、彼の肉体は滅びた。安らかに散った。本来ならば霊体が存在するはずである。それこそが魂の宮、人間の意識の一つの表現媒体なのだから。されど、彼はすでに捨てていた。その霊体という女神から与えられていた人の可能性を、最初から放棄していたのだ。


 そして彼は【神】となった。

 アピュラトリスという神の一部になったのだ。



「まさか…、そのようなものが…! 信じられん!!」



 羽尾火は今、ようやくにしてそれが何かわかった。わかってしまった。あの脊髄のようなものは、たしかに人のものでもない。また、他の巨大生物の脊髄でもない。


 あれは単なる表象シンボル

 その中身を表したデザインにすぎなかったのだ。


 そして、その中身こそ…



〈気がつくのが遅すぎましたな! ナウマク サンマンダ ボダナン アビラ ウン ケン ソワカ!〉



 オンギョウジの意識は、すでにこの空間と同化していた。この壁、この床、ここにあるすべてがオンギョウジそのものであった。それは彼の霊体と同化し、肉体が滅んだ際に発動した賢者の石、【ハビラ・ビラカ〈神の脊椎せきつい〉】の力である。


 これはアグマロアのような紛い物ではなく、かつて黒賢人が生み出した本物の賢者の石である。その中でも稀少度が非常に高いもので、長年【生気】を蓄え続けて透明にまで昇華された超純度のエネルギー体。


 見た目は水晶のようだが、何千年と蓄えた生気によって、とてつもないパワーを秘めている。もしこれが爆発のエネルギーに転化されれば、数千の核弾頭に匹敵する力を秘めている。


 しかし、その力はザックル・ガーネットのような憎しみに満ちた黒い邪気ではなく、むしろ輝かんばかりの光。生気であった。ハビラ・ビラカが持つ力は破壊ではない。その力は聖なる波動を宿すものなのだ。



「なんということを…」



 羽尾火が驚いたのは、ハビラ・ビラカの力にではない。当然、生気にでもない。これは清浄なる力。見るものに安らぎと活気を与えはすれど、不快感は与えない。


 現に羽尾火も、癒されるような爽快感すら感じている。疲れが癒えていく。生気とは人の活力となるものなのだ。だが、そんなものは羽尾火からすればさしたるものではなかった。


 問題はその先。


 そのハビラ・ビラカの莫大な生気によって活性化したその存在。オンギョウジが力を注いだのは、唯一それだけ。部屋の中央に祭られていた【脊髄】だけ。


 脊髄が徐々に動いていくのが見える。

 波打つようにウネウネと動いている。


 否、動いているのではない。

 【成長】しているのだ。



「なぜ、このようなものがここにあるのじゃ…」



 羽尾火の言葉は、驚きと落胆が混じったものであった。非常に複雑で一言では表現できない心情である。



〈あなたもこれはご存知なかった。それも当然でしょう。おそらくマスター・パワーも知らぬことなのです〉



 エルダー・パワーとて、ダマスカスのすべてを知っているわけではない。


 この組織が生まれたのはアナイスメルが発掘され、その効用がある程度判明し、アピュラトリスの原型が生まれてからのこと。技術を狙う者たちから守るために、紅虎丸の弟子たちが生み出したもの。


 ゆえに、アピュラトリスの根幹については知らされていないこともあるのだ。だが、羽尾火はアピュラトリスの構造は知らずとも、目の前の脊髄が何かはわかる。



「なんと愚かな…」



 羽尾火はあまりの愚かさにそう呟くしかなかった。



〈それがこのダマスカスの罪。断罪されてしかるべきではありませんかな〉



 アピュラトリスに【アレ】が植えられていた。もちろん、その根幹のシステムを作ったのは賢人なのだろう。


 しかし、知っていたのだ。


 このアピュラトリスを建造した者は、これが何であるかを知っていた。少なくとも神聖かつ危険なものであることは知っていた。知りながらも人の繁栄のためと使っていたのだ。知識の探求のために、生命の法すら犯す愚を行いながら。



「じゃが、それはぬしらも同じこと! 人が使うべきものではなかろうて!」



 羽尾火は再び炎狐となり、神の脊髄に対して炎を噴く。その正体を知った以上、オンギョウジの真の目的を悟った以上、今度は本気の本気。十本の尾から閃光のような炎が飛んでいく。


 炎は成長を始めて肥大化していく脊髄に命中。消滅させる。



〈羽尾火殿、あなたもおわかりのはず。もう止まらないのですよ〉



 そんな羽尾火を哀れむように、オンギョウジは事実を伝える。


 そして、脊髄は瞬時に復活。



「なんたる生命力よ。まるで効いておらぬか」



 羽尾火の炎はまったく効いていないどころか、その活力あるエネルギーを吸収してさらに巨大になっていく。脊髄はさらに肥大化し、瞬く間に直径一キロある部屋の半分を支配するようになった。



〈オン カカカ ビサンマエイ ソワカ〉



 これは、かつて人の始祖であった者が唱えた真言。神の脊髄に対してより強い共鳴を果たす力がある。羽尾火の抵抗むなしく、オンギョウジは神の脊髄と同化していく。



〈あなたに言われた言葉を返さねばなりませぬな。一人で来たのは失敗でしたな〉



 その言葉に皮肉はなかった。今では完全に立場が逆転してしまった老婆に対する労りすら感じさせるものであった。




〈さあ、今こそ成し遂げる時!〉




 オンギョウジの思念が、他の結界師に伝わっていく。準備は整った。最後の仕上げが待っている。



「オン オン オン!!」



 他の結界師が真言を唱え、結界を張っていく。その力はオンギョウジである脊髄に集まり、アピュラトリスを覆うように広がっていった。



「もはや人の身ではどうにもなるまいか」



 羽尾火は抵抗を諦める。この大きな流れを止めるには、羽尾火はあまりに弱々しかった。


 そんな羽尾火に、オンギョウジは初めて嘘偽りのない感情を見せる。



〈拙僧もあなたと歩む道を探してみたかった〉



 それは本音であった。今はただただ昔が懐かしい。親代わりである羽尾火に対しても、もっと優しくしてあげたかった。孝行ができるのならばしてあげたかった。


 修行が終われば、ただの人と人、親と子。祖母と孫のような関係である。だが、もはや過去は過ぎ去った。人類が過去に囚われすぎた結果こうなったのならば、そのすべてを焼かねばならないのだ。



(さらばじゃ、わが子よ)



 羽尾火にとって里の子供は、すべて自分の子供のようなもの。思わず涙が溢れる。



(女神よ、慈悲を…)



 オンギョウジと会うのは間違いなくこれで最後となる。このようなことをしたからには、いったいどれだけの代償を支払うのか見当もつかないが、せめて女神に慈悲を請うのが親の心情というものであった。


 そして、羽尾火は消えていく。


 もともと彼女は本体の【影】。肉体は里におり、より強度の高い【複体ダブル】を使ってアピュラトリスに赴いたにすぎない。そんな状態でも、これだけの術を扱えることこそエルダー・パワー術士師範の強さともいえる。


 だが、そんな彼女であっても、時代を止めることはできなかったのだ。


 廻る。

 宿命の螺旋が廻っていく。

 世界を動かすために廻っていく。



〈我らがすべてを神に捧げよ! 偉大なる母に! 死と炎の母に!〉



 オンギョウジの意思とともに四人の結界師が術を唱えると、彼らの肉体が粉々に飛び散った。結界師だったものから出てきたのは霊体ではなく、オンギョウジと同じく白く透明な結晶。ハビラ・ビラカの複製である。


 こうして五つの星がつながり、脳は神経を張り巡らせ、アピュラトリスと、そしてアナイスメルへとつながっていく。




「主よ、わが役目は果たしましたぞ。あとはお任せいたします」




 人の世に正しき愛を。


 正しき進化の道を。


 火をもって怠けてしまった人類を焚きつけるために。



 そしてオンギョウジは消えた。


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