3  「あぼげっ」


最悪の寝覚めだった。


意識が戻った僕の目の前には、

気持ちよさそうに眠るおっさんの顔面があと数㎝の距離に迫っていた。


顔にかかる鼻息に生理的拒否反応を感じ、うげっ…と反射的にのけぞる。


冷静になってよく見ると、おっさん、というには少し若い、ふくよかな男だった。なんというか、仏像みたいな、悟ったような寝顔で気持ちよさそうに眠っている。

ぐぉー…ずー…という音を立てながら。


そうか……。このいびきで目が覚めたのか、と眉をひそめる。

ていうか……なんで僕は眠ってたんだっけ?

この大仏顔は誰なんだ?

そもそも……ここはどこだ?


とりあえず、目が覚める前の記憶を呼び起こす。

ヨーロッパ旅行に向かうはずで…ホテルのエレベーターで、なにか女の人と…ものすごくカオスなやりとりをして……そうだ…そこで突然、気を失ったんだ。


辺りを見回す。7~8畳くらいの、コンクリート壁の薄暗い部屋だった。

頑丈そうなドアが一つ。

そして、正面の壁に、分厚いガラスの小さな窓が………ん?


窓に映る景色に、一瞬、目を疑う。

きらきらと光る水面。そしてそのはるか先に広がる水平線。


紛れもなくここは、海の上だった。

ということはつまりこの部屋は、船の一室、ということか。


うん、えー…と、なんで?

あれか?もう、ヨーロッパに出発してんのか?

皆さんが気を失ってる間に旅がスタートしました!

……っていう斬新なサプライズか?


いやいやいやいや……。


考えても何一つ解決しない状況であることを察し、

自分を落ち着かせようと深呼吸をする。

落ち着いたところで、なにも事態は好転しないのだけれど。


そのとき、どこからかかすかに、若い男と女の声が聞こえた。


「……しか……あ、ここ……んのも……だな」

「……すね」


部屋のドアが、少しだけ開いていた。

その隙間から聞こえる、隣の部屋での会話のようだった。


そっとドアに近づき、耳を寄せる。


「まあひとまずは男10人、揃ってよかったぜ」

「そうですね」

「やつらはちゃんと寝てんだろうな」

「滞りなく。隣の部屋でぐっすりと」


やつら……というのは僕たちのことか。

薄暗くて今まで気づかなかったが、僕のいるこの部屋には、

さっきの大仏顔以外にも、たしかに10人ほどの男が壁によりかかり眠っていた。


どうりで、やけに空気がむさくるしいと思ったぜ……。

室内の男臭さに若干息苦しくなり、背負っていた自分の旅行用のバッグから、音を立てないようにペットボトルの水を取り出し、蓋を開ける。


ドアの向こうでは、男女の会話が続いていた。


「しっかし……我ながら大胆なことをしたもんだぜ」

「そうですね……豪華クルーズ船で行く夏のヨーロッパ1か月パッケージツアー!……でしたっけ」

「ああ。そうさ。旅費も食費も全部タダの最高のVIPツアー」


男はふっ、と笑い、言葉を続ける。


「全部ウソだけどな」


ビチャビチャビチャビチャ。

手に持って、飲もうと傾けたペットボトルの水が、着ていたシャツに勢いよくこぼれた。男の言葉に反射的に体が固まり、手の自由が利かなくなっていた。


え………今なんていったコイツ?

ウソ?………何?ウソって…ウソって何?


「ヨーロッパ周遊クルーズなんか1ミリも用意してねえっつーの。まあ、騙したのは悪いとは思ってるが……普通に考えれば、タダでヨーロッパいけるなんて、んな上手い話あるわけねえだろ!やつらにゃあ、騙されたのが運のツキって思ってもらうしかねえな、かっかっかっ!」


おいおいおいおいおい……。


完全に“騙された”側であることを自覚した俺は、

衝撃的な話の内容を、すぐに受け止めきれないでいた。


ウソ……ヨーロッパ旅行、全部ウソ……。

じゃあ俺はこの船でどこに連れてかされてんだ……?

え……なに?もしかして…人身売買的なやつとか?

というか、ドアの向こうの“騙した”側の2人は何者だ、

人を騙して高笑いしやがって……。


「ただ、全部ウソ、というのは少し言い過ぎではありませんか?」

「……そうか?」

「ええ、まあ一番大事な“目的地”が180度違うので、皆さんがこれ以上ないほど怒り狂うのは間違いないでしょうが」

「はっ…そりゃそうだ。なんせ、楽しみにしてたヨーロッパ1ヶ月のエレガントな旅の代わりに…………

無人島で1ヶ月サバイバル生活してもらおうってんだからな」


「あぼげっ!?」


しまった。

そう感じた瞬間には、もう遅かった。

あまりに予想だにしない、突拍子のない話に、思わず声が出てしまった。

「無人島」だの「サバイバル」だの不穏な単語に脳がショートし、言葉にならない声だったが。人は本当に驚くと言語すらまともに扱えなくなるらしい。


しん……とドアの向こうの会話が止まった。

間違いなく、こちらで誰かが会話を聞いているのが気づかれた。


ガチャリ、とドアが開く。


入ってきたのは、1人の女性。


あ……と一瞬思考が固まる。

ホテルのエレベーターで会話をした、黒髪セミロングの女性だった。


「あんた……エレベーターの……」


女性は、にこりと笑いかけてきた。

「あら、上野さま。ごきげんよう」


「なんであんたがここに…………ちょっと待て、もしかして、あんとき俺を気絶させたのも、あん……」


言い終わらないうちに、

女性が、目の前から姿を消した。


え……


軽やかなフットワークで、後ろに回りこまれていた。


「そう。私。こうやってね」

そう耳元でささやかれ、

ドン、と手のひらで首の後ろを打たれた。


本日2度目の感覚。


体の力が抜け、どさりと床に倒れる。


かすかに女に声が聞こえた。


「ほんとに……ちょろいわねこの子は……」


ふっ、と意識が遠のいていく。




*****




上野真守がしっかり気絶したのを確認し、女性は部屋に戻った。


「大丈夫か?」


男が尋ねる。


「まあ、会話は聞かれてたようですが、問題ありません。また眠ってもらいました」


「眠らせたんだろ……。便利だよなぁ、お前の“手刀”。……実際あれで人を気絶させられんのは、漫画の世界だけだと思ってたけどな」


「恐縮です」


「……まあいい。島まではあとどれくらいだ?」


「あと…30分もあればつくはずです」



ゴォォォ、とフェリーは速度を上げ、「無人島」へと進む。





―――――――――

「上野真守は騙された」 終


上野真守20歳。気絶中。まだ童貞。

前途多難の夏が始まる。


「無人島とクズプロデューサー」(仮)に続く……

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