第38話 それでも、もったいない

「その……今日はすいませんでした」


 昼食を終えた後、琴音と彩夜が食器の片付けをしてくれるとのことだったので、和樹はソファーに腰掛けていると、楓華が唐突に謝った。


 なんで謝るんだ、と困惑しながら楓華を見れば、もじもじと身を縮ませ申し訳なさそうに眉尻を下げている。


「……謝るような悪いことをされた覚えはない気がするんだが。何で謝るんだ」

「姉さんたちがやったこととはいえ、勝手に家に連れてきてしまったので」

「いや別に……。俺もこれといった予定があった訳じゃなかったし」

「でも、迷惑がかかってしまったのは事実ですし」


 確かに勝手に連れてこられたのは本当だが、迷惑だとは思っていなかった。


 しかし楓華はしょんぼりと肩を落として、いたたまれなさそうにしていた。


「……俺は少しだけ安心したけどな」

「え?」

「琴音さんも紗夜さんも、楓華のことを大切だと想ってるのが、少しの間一緒に居ただけの俺にも分かった。……ちゃんと、愛されてるんだなって」


 1人っ子である和樹にも、それは明確に伝わってきた。


『……ありがとね。私たちもできる限り楓華が楽しい生活を送れるように努力はしてるつもりだったけど……』

『私からも。多分、アンタが居なかったら楓華はもっと傷ついてたと思う。……本当に、ありがとな』


 楓華本人は慣れているから何とも感じていないのかもしれないが、琴音も彩夜も、楓華が表情をころころと変える度にでるような柔らかい眼差しを向けていた。


 姉妹として、家族として、心から信頼していることが分かる、暖かい眼差し。


 その光景は微笑ましいのと同時に、和樹にとってはどうしようもなく羨ましいもので。


「……2人は私の自慢の姉さんですから」


 そう言って、楓華はゆるりと目蓋まぶたを閉じて、慈しむような笑みを浮かべる。


「いつも私を支えて、励ましてくれて。たまに不器用な所もありますけど、それも含めて、かけがえのない大切な家族です」

「そっか」

「……はい」


 和樹が同意を示すと、楓華の瞳はほんのりと潤んで揺れていることに気づく。


 しまった、と思ったが、放ってしまった言葉を引っ込めることはできない。


 家族の話題は楓華にとってあまりいい思い出ではないと理解していたはずなのに、その話題を膨らませてどうするんだ、と後悔が脳内を駆け巡る。


 しかし楓華は少し困ったように視線をきょろきょろと動かしたものの、すぐに「大丈夫ですよ」と首を横に振った。


『……大丈夫、ですから』


 その表情には、以前見た時のようなぎこちなさは含まれていなかった。


「和樹くんも、ですからね」

「……ん?」

「私にとって……和樹くんも、姉さん達と同じくらいにかけがえのない大切な人です」


 楓華の柔らかく小さい手が、そっと和樹の手に重ねられた。


 その掌はひんやりとしていたが、その中にも確かな熱が宿っていた。


 細い指がさするように手の上を張っていく感触に、不覚にも心臓がどきりとしてしまう。


 楓華の顔に浮かんでいた表情は、穏やかで柔らかく、どこか儚げな、ひたすらに可愛らしいもの。


 思わず息を飲んでせそうになってしまうほどに美しく、そして愛らしかった。


 和樹は楓華のことを友人として好ましく思っているが、そこに恋愛的な感情は含まれていない。それは当然、楓華も同じだろう。


 しかしそうだとしても、楓華のその一言には、和樹の心臓を高鳴らせるには十分なものだった。


 思わず変な声が口からこぼれそうなるのをこらえながら、和樹は振り絞るように言葉を切り出した。


「……それなら、いいんだけどな」


 そう返せば、楓華はちらりとこちらに無垢な微笑みを向けてくる。


「これからも、よろしくお願いします」

「……こちらこそ。俺なんかでよければ」

「……また卑下してますね」


 呆れた声で返されたことに、和樹は少しばかり安心してしまったのは、心臓の鼓動が落ち着きを取り戻してきたからだろう。


「仕方ないだろ。……こんなの、俺にはもったいないんだから」


 転校してきて以来、校内での話題が常に絶えない美少女と今こうして一緒に居ることさえ、今となっても信じられない時がある。


『俺は……どこで、間違えたんだ』


 わずかに積もった雪の上。


 鮮血と、後悔と、耳にこべりついて離れない弾けるような金属音。


 白くて冷たい絨毯じゅうたんに、雫が音も立てずに吸い込まれていく。


 卑下するな、と何度言われても、体に刻まれた自分の無力感の傷痕きずあとが鈍く痛みを訴え、そろそろ前向きになってもいいんじゃないかという考えは薄らいでしまう。


 今みたいに、誰かと幸せを共有できる時間なんて


 ──俺なんかには、本当にもったいない。


「──もったいなくなんかないですよ」


 そっと閉じかけた瞳に、楓華のやんわりとした笑みが映った。


 視線をどこに向けていいのか分からず目を逸らそうとすると、楓華は和樹の頭にゆっくりと手を伸ばして、そっと置いた。


「……なにしてんだ」

「この前のお返しです」


 この前、というのは以前楓華が看病してくれたお礼として和菓子を渡した時のことだろうか。


 あの時は楓華が寂しそうにうつむいていたので和樹が反射的に撫でてしまったという、思い出すだけで何かに顔を埋めたくなるほどに恥ずかしい一件だ。


「……俺が寂しそうに見えたか?」

「どちらかと言えば苦しそうな顔をしてましたね。……こうすれば少し楽になるかなと」


 小さな手で優しく上から下へと髪を撫でてかすかな笑みを和樹に向ける楓華に、和樹は黙ってそれを受け入れる。


「触り心地はかなりいいですね。意外ともふもふしてるというか」

「意外とってなんだよ……」


 本来なら「やめてくれ」とでも言って振り払うべきなのだが、体がそれを良しとしてくれなかった。


 今離れたら何かが溢れてしまいそうな、そんな気がしたのだ。


 むしろ、しばらくこのままでいてほしいとすら思ってしまっている。


「……まだしてほしいですか?」


 そんな和樹の思考を見透かしたように、楓華は和樹に甘美な声で囁く。


「……もう、大丈夫だ」

「遠慮しなくてもいいのですよ」

「そうじゃなくて……普通に恥ずかしい」

「そうですか。では、これにりたら、私の前で自分のことを謙遜けんそんするのはやめるように」


 懲りなければもう1度してもらえるのか、という思考が脳裏を過ぎったが、それはそっと飲み込んでおくことにした。


「……精進しょうじんする」


 やけに古臭い言葉だなと自分で言っていて思ったが、今の和樹の脳内には適切な言葉を選択するほどの余裕がなかったということだろう。


「次はないですからね」

「……もしまた卑下したら?」

「その時は、私が満足するまで頭を撫でながら褒めちぎってあげます」


 楓華の提案した可愛らしい罰は、考え方によってはご褒美にもなりかねないのだが、本人は割と真面目に言っているのであっさり流そうにも流せない。


「……それはごめんだな」

「ふふっ。そうでしょうね」


 何故か誇らしげに頷きながら胸を張っている楓華の姿が妙に面白くて笑いそうになったが、ぐっと堪えて、和樹は楓華に降参したのだった。

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